「強い風が吹いた。空がオレンジ色になった。ほこりが舞い上がり、風で塀が揺れた。僕たちはそれについて何も知らなかった」。ベラルーシのブジシチェ村を撮った記録映画「アレクセイと泉」(本橋成一監督)の冒頭にモノローグが流れる▲チェルノブイリ原発事故から14年後に撮影された映画である。放射性物質で汚染された村から人々は去り、地図からも抹消されたが、55人のお年寄りと身体障害があるアレクセイという青年が残っていた▲福島第1原発事故で立ち入りが規制される「警戒区域」(半径20キロ圏内)への一時帰宅が連休明けにも始まる予定だ。15歳未満や妊婦、歩行の困難な高齢者は対象外という。20キロ圏外でも累積放射線量が高い地域では避難が求められているが、自宅から動こうとしない人もいる▲「決断がつかない」「介護が必要な両親を抱え、簡単に避難できない」と苦渋の思いが漏れる。実際、避難先で命を落としたお年寄りが何人もいる。落ち着かないため避難所で迷惑がられる障害児もいる。「いっそ家と一緒に流された方が良かった」という母の言葉が悲痛だ▲ブジシチェ村の人々はジャガイモを掘り、豚や鶏を飼い、酒を飲み、眠る。貨幣はいらない。オール電化の便利さもなければ、肥大する欲望をかき立てる娯楽もない。情報技術がもたらす恩恵もない。生きるために必要な汗をかくだけだ▲「運命からも自分からもどこにも逃れられない」とアレクセイは語る。故郷から引きはがされる人の痛みに敏感でありたいと思う。同時代に生きる誰もが、3・11がもたらした現実から逃れられないのだ。
毎日新聞 2011年5月7日 東京朝刊
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