Sunday, April 24, 2011

24/04 広島大、サイトで放射能情報…長年の研究成果

 福島第一原子力発電所の事故を受けて、広島大は放射能について正確な情報を発信するため、「放射能対策基本情報ポータルサイト」を開設した。

 これまで同大学や同大学緊急被ばく医療推進センターの各ホームページには、放射線被曝 (ひばく) に関する項目を掲載していたが、新たな情報を加え一元化した。

 放射能の基本情報では「大人と子供のどちらが被ばくの影響が大きいか(回答・子供のがんリスクの方が高い)」など、Q&A形式で22項目を載せた。放射性物質の除染が必要な基準や、食べ物の安全性についてもまとめている。

 また、被曝医療の情報では、体に付着した放射性物質の除去方法を紹介。甲状腺を守るための安定ヨウ素剤の服用は「イソジン、ルゴールなどの消毒用ヨード剤にはアルコールなどが含まれているため危険」として、医師に必ず相談して内服用の安定ヨード剤を服用するよう呼び掛けている。

 広島大は「長年の研究に基づいた正確な情報なので活用して、少しでも安心してもらいたい」としている。

 放射能対策基本情報ポータルサイトは(http://aboutradiation.hiroshima-u.ac.jp/)。

(2011年4月24日17時51分 読売新聞)

24/04 人が多すぎて…復興構想会議、運営めぐり危機感

 東日本大震災復興構想会議は23日の第2回会合で、会議の運営方法をめぐって、各委員から改善を求める声が相次いだ。

 意見集約に向け委員の間に早くも危機感が漂っている。

 赤坂憲雄学習院大教授は終了後、記者団に「あまりに人が多すぎて議論ができない。本当はしゃべりたいことがいっぱいあるが、時間が足りなくて煮詰まらない」と不満を漏らした。「5月の連休明け以降は交通整理していくと思うが……」と、第1次提言取りまとめにも不安を見せた。

 会合では、下部組織の検討部会が財源論などの議論をすでに始めていることについて、橋本五郎読売新聞特別編集委員が「構想会議とかかわりなく、独立して議論が先行している印象を受ける」と指摘。高成田享仙台大教授や大西隆東大教授らが同調した。五百旗頭真議長は「(部会には)7合目、8合目まで議論してもらい、頂上に登り詰めるのは我々がやる」と釈明する場面もあった。

 この日は、会合のテーマを事前に決め、委員が事前にメモを提出し、議長が整理して論議することや、緊急課題について1回ごとに提言を行うよう求める意見も出た。

(2011年4月24日16時12分 読売新聞)

24/04 福島第一原発、高濃度汚染水に専用タンク設置へ

 東京電力は23日、福島第一原子力発電所のタービン建屋や作業用トンネル(トレンチ)などにたまった高濃度の放射性物質に汚染された水について、敷地内の建屋から離れた場所に専用タンクを設置し、移送する方針を明らかにした。

 7月をめどに1万トン分を用意するという。

 東電によると、高濃度汚染水用のタンクには、腐食などを防ぐための特殊な塗装を施す。ただし、放射線を完全に遮断できないため、作業中の建屋から離れた場所に置き、放射線の影響を低減させる。設置には1万平方メートル以上の土地が必要で、敷地内にある「野鳥の森」などの森林を伐採し、場所を確保したいとしている。

 これら高濃度汚染水は、仏企業などの技術を使って新設される浄化装置で最終的に処理される。

(2011年4月24日09時23分 読売新聞)

24/04 東電、福島第一原発の「汚染地図」初めて発表

 東京電力は24日、福島第一原子力発電所内で、高レベルの放射性物質で汚染された場所を示した「汚染地図(サーベイマップ)」を初めて公表した。


 水素爆発を起こした3号機周辺は線量が毎時300ミリ・シーベルトのがれきが残っているなど、爆発から1か月以上たった今も、長時間作業するには高過ぎる状態が続いていることが浮き彫りになった。

 汚染された場所での作業は難航が予想され、原子炉の安定化に向けた工程表は予定より遅れるとみる専門家が多い。しかし、東電は「撤去には半年以上かかるが、汚染地図の内容は工程表に織り込み済みで、遅れは出ない」としている。

 地図は敷地内の約230か所で測定した放射線量を示したもので、第一報は先月22日に作成。新しく測定した結果を随時上書きし、注意喚起のため、作業員が集まる場所に掲示している。

 先月23日の地図によると、大気中の線量が100ミリ・シーベルトを超える場所が、水素爆発の起きた1、3号機周辺を中心に5か所あった。この線量は、1時間の作業で作業員の年間被曝
ひばく
の上限に当たるとされてきた数値だ。今月23日までの測定値による地図では、がれきの撤去や放射性物質の半減期もあって、毎時100ミリ・シーベルトを超える場所はなくなったが、同10ミリ・シーベルトを超える場所が1~4号機周辺だけで30か所以上あった。

(2011年4月24日21時59分 読売新聞)

23/04 Do non-scientific folk beliefs about disasters have something to teach?

Water in the holy iron hearths at Okama Shrine in Shiogama, Miyagi Prefecture, had a clarity normally unseen at around 8 a.m. on March 11, some seven hours before a massive earthquake hit northeastern Japan, the shrine's caretaker said.

Though not a scientifically-proven premonitory phenomenon, legend has it that changes in the water are a sign of an impending catastrophe.

"It was just a slight change from usual, but I thought it was strange," said 79-year-old Kazuko Nishimura, as she looked back on it.

Nishimura had taken a peek into the hearths as she accompanied shrine visitors that morning. She noticed then that the water in two of the four 800- to 1,000-year-old iron hearths, which was usually a muddy reddish brown from trash and rust, was clear. The water had turned black like ink before the 2004 Chuetsu Earthquake in Niigata Prefecture, and vermillion before the 2008 Iwate-Miyagi Nairiku Earthquake, Nishimura said.

Meanwhile, on April 22, more than a month after the Great East Japan Earthquake, the water was once again murky.

Victims of the March 11 quake and tsunami have given various accounts of what they think may have been omens, though they admit they cannot confirm the links. Some in the town of Minamisanriku in Miyagi Prefecture, for example, said that crows disappeared a few days prior to the temblor, and pillars of light stretched into the sky beyond the cape the night before, while residents of Kuji, Iwate Prefecture, said that they had had an abnormally large haul of octopus.

It's possible that the disaster victims are merely making interpretations based on a subconscious desire to link everything to the massive earthquake.

Considering the fact that "science" was unable to predict such an unprecedented disaster, however, there's no basis to outrightly dismiss such folk beliefs. Plus, keeping a habit of noticing even the slightest changes in our environment -- which those living in outlying islands may be particularly skilled at because of their general proximity to nature -- may even serve to better prepare us for unforeseen disasters. (By Tomohiko Kano, Morioka Bureau)

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(Mainichi Japan) April 23, 2011


沿岸南行記:津波被災地より 宮城県塩釜・22日 「神釜の水」が変化


御釜神社にまつられている4台の神釜。奥の2台が震災前に澄んだ=宮城県塩釜市で、狩野智彦撮影
 普段の記事と同じように書くならば--。<東日本大震災約7時間前の3月11日午前8時ごろ、宮城県塩釜市の御釜神社で、鉄製の「神釜」の水が普段と異なり澄んでいたことが分かった。水の変化は変事の前触れと伝えられ、住み込み管理人の西村和子さん(79)は「わずかな変化だけど変だなと思った」と話している>。むろん科学的根拠のある前兆現象ではない。

 だが、拝観客の付き添いで当日朝、釜をのぞいた西村さんは証言する。1000~800年前製というフライパン状の釜4台のうち奥の2台で、いつもはゴミやさびで赤褐色に濁る水が澄んでいた、と。04年の新潟中越地震前は墨色、08年の岩手・宮城内陸地震前は朱色に変わったという。22日は濁っていた。

 数日前からカラスが消え、前夜に岬の先で光の柱が空に伸びた(宮城県南三陸町)▽タコが異常にとれた(岩手県久慈市)--。「関連は分からない」が地震前の事だ、と各地で被災者に聞いた。何事も地震に結びつける心理が無意識に働いた可能性はある。

 ただ、未曽有の震災を予知できなかった「科学」が、これらを否定できる理由もない。ささいな環境の変化にも目を配る気構えは、不測の災害への備えに通じる気もする。自然との距離が近い離島では、より変化に敏感かもしれない。【狩野智彦】

英訳
毎日新聞 2011年4月23日 東京朝刊

24/04 Kaleidoscope of the Heart: Returning to our pre-earthquake selves

Rika Kayama

Since the earthquake, I have called for people to live their lives like they did before the disaster as much as possible. I recently thought about how I myself have done on that front.

Thinking about it, I realized a few things. One is that when I've gone to bookstores recently, I haven't been buying novels or medical books like usual. Instead I end up buying nothing but magazines related to the earthquake or the nuclear plant disaster. Another thing I realized was that, even though I've been telling people to "distract themselves for even a little while with a movie or music," I myself haven't set foot in a movie theater.

And, I realized that when my job at the hospital is over and I get myself ready to write an article like this, I end up writing about the earthquake disaster even if I didn't plan on it. It all showed me that my life is not back to its predisaster ways.

Last week I had a chance to go to Sendai, one month having passed since the earthquake. I met a friend from my high-school years who is now working as a researcher. She said that since the earthquake, she has been busy checking on the safety of her students and getting her lab equipment back in order. Keeping a cheerful mood, she said she was borrowing the bath of her friend's house because the gas line at her own house was still out.

I asked her, "Has your life completely changed because of the earthquake? These days, how much of your time is spent dealing with things like the aftermath of the earthquake and preparing for aftershocks? Around 80 percent or so?"

"Hmm," she thought for a second, tilting her head. Then came an unexpected answer: "Maybe around 20 percent."

She said that, yes, there were lots of earthquake-related things to take care of, but she was also going to international academic conferences and running experiments, just as usual. Her life had not been completely turned upside-down.

Just because the earthquake happened doesn't mean that we no longer like the food we once did, that the job we took pride in is now meaningless, or that a person with a kind, humor-loving personality must change. Thinking back to who we were before the earthquake, we can try to slowly get back into the things we were interested in, and restart the things we had begun. By doing so, we should be able to feel how our pre- and post-earthquake selves are a continuation of the same existence, and our feelings should change for the better.

For my part, I've recently started to read a book I bought before the earthquake but had been leaving untouched since. It has been as interesting as I hoped, and it made me feel that my pre-disaster self had returned.

Aftershocks will continue for some time, and many people will continue to be occupied with the results of the disaster, but I would like people to try saying to themselves, "Be it last year or this year, the person called 'me' is the same." (By Rika Kayama, psychiatrist)

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(Mainichi Japan) April 24, 2011



香山リカのココロの万華鏡:震災前の自分に戻る /東京

 震災以来、「なるべくいつも通りの生活を」と呼びかけてきたが、私自身、どうだろうとふと考えてみた。

 そういえば、本屋さんに寄ってもなかなか小説や医学の専門書を手に取る気にならず、気がつけば地震や原発について書かれた雑誌ばかり買っている。「映画や音楽でひとときでも気をまぎらわせて」と言っているのに、映画館にも行っていない。病院での仕事が終わってこうして原稿を書こうとすると、つい震災のことを書いてしまう。「なんだ、私もまだ平常通りの生活に戻ってないじゃないか」とちょっと反省した。

 先週、震災から1カ月を経た仙台に行く機会があり、現地の大学で研究生活を送る高校の同級生に会った。彼女は学生の安否確認やめちゃめちゃになった実験設備の修復に追われている、と言う。「ガスもまだ復旧してないから、お風呂は友だちの家で借りてるんだけどね」と明るく笑う彼女に、私は尋ねてみた。

 「震災で生活も一変しちゃった? 今って、地震の後始末や余震への対応が毎日の何割くらいを占めてるの? 8割くらいがそんな感じ?」

 すると、「うーん」と一瞬、首をひねった彼女から返ってきた答えは、意外なものだった。「2割くらいかな」

 たしかに震災に関した用事も多いが、その一方でいつも通り、国際学会に出かけたり実験をしたりもしているという。そうか、すべてが変わってしまったわけじゃないんだ、と私は納得した。

 これまで好きだった食べものが、震災が起きたからといってきらいになるわけじゃない。やっていた仕事が、突然、無意味なものに変わるわけじゃない。やさしい、ユーモアが好き、といった性格の特徴も同じはず。「震災の前の私はどうだっけ」と思い出して、そのときにハマっていたもの、手がけていたものを、できればまた少しずつ始めてみる。そうして「自分や心は震災前も後も連続しているんだ」と確認するだけで、気分はずいぶん違うのではないだろうか。

 私も、震災前に「読もう」と思って買ったままになっている本を読み始めた。それは期待通りの面白さで、3月以前の自分が戻ってくるような気がした。余震も続きまだまだ落ち着かない生活を送る人も多いが、「私という人間は、去年も今年もちっとも変わってないんだ」とつぶやいてみてほしい。

英訳毎日新聞 2011年4月19日 地方版

04/04 〈世界から被災地へ〉届け千のメッセージ 米の日本人留学生がサイト

2011年4月4日11時4分

 世界の人々が被災者を励ます言葉が、インターネットのサイト「世界から日本へ1000のメッセージ」に続々と集まっている。ニューヨーク・コロンビア大学の日本人留学生たちが「国境を超えてつながっていると知ってほしい」と立ち上げた。

 「世界のあらゆる街角から支援や援助の声があがっているのを知ってもらうことが、この惨事を乗り越えるみなさんの慰めに少しでもなるよう、願ってやみません」「地震・津波は世界中で報道され、みな心配し応援しています」。約50カ国から寄せられたメッセージは1週間後には800件を超えた。

 企画した一人、鈴木大裕(だいゆう)さん(37)は、「こんなに集まるとは思っていなかった」。友人たちから送られたメールをまとめる形でサイトを始めると、瞬く間に反応が広がったという。寄せられたメッセージは、50人を超える有志が日本語に翻訳している。

 被災地からも感謝のメールが届いている。福島県に住む女性が「勇気をいただいて、涙が止まりません」「小さな子どもを抱え、不安ばかりです。でも、頑張ります」と書いた。(ニューヨーク=田中光)

 サイトのアドレスは http://jequake1000msgs.net

09/04 〈生きていくあなたへ〉必ず復興と確信 元ヴィッセル神戸選手 ジアード・トレムサニさん

写真:ジアード・トレムサニさん(47)拡大ジアード・トレムサニさん(47)

 阪神大震災の直後、ヴィッセル神戸でプレーしました。高速道路は倒れ、家も崩壊、街灯も消えていた。毎日3~4時間かけて練習場に通いました。でも、人々は昼夜を問わずに工事を続け、街はめまぐるしい復興を遂げました。

 サポーターは試合に負けても選手をなじらず、「がんばって」と声援を送ってくれた。必死にプレーし、1996年にJ1昇格が決まりました。スポーツでも日常生活でも互いを尊重し、助け合う。そんな日本人の精神から、多くを学びました。

 母国チュニジアに戻った後も常に日本は私の一部です。今回の震災はとてもつらく、言葉もない。でも優しく勤勉で誇り高い日本人は必ず復興を果たすと確信しています。

 チュニジアで1月に起きた民衆デモでは200人以上が命を落とし、私たちはいま、懸命に民主主義の国家づくりに取り組んでいます。境遇は違うけれど、日本人とチュニジア人が、ともに国家の再建を果たしていくことを願っています。

07/04 〈生きていくあなたへ〉「キズナ」も共通語 俳優・竹下景子さん

写真:竹下景子さん拡大竹下景子さん

 阪神大震災が起きた日の1月17日前後に、被災者の詩を朗読する活動を12年間続けています。毎年1回ですが、被災地に足を運び、被災した方と交流する中で、心の復興には長い時間がかかるのだと気づかされました。悲しみは、50年たっても、100年たっても消えないのです。

 でも、驚くべき早さで街の復旧が進んだのも事実です。みんなが手を携えることで新たな絆が生まれました。地域の人同士だけでなく、見ず知らずの人、被災地外の人、いろんな人と人とのつながりが大きな力となり、愛するふるさとでの生活を再建することにつながった。皆さんを傷つけた「ツナミ」もそうだけれど、「キズナ」も世界共通語として知られているのです。

 ふるさとを元の姿に戻そう。美しいまちでまた暮らそう。被災した皆さんのそんな思いを日本中の皆で胸にともし、一緒に前に進んでいきましょう。時間はかかるけれど、一人じゃない。私たちも同じ気持ちで前を向いていきますから。

11/04 〈生きていくあなたへ〉謙虚な日本人 誇り 旅行ジャーナリスト・兼高かおるさん

2011年4月10日11時5分

 被災地の人たちに、私は正直言って、何もできないつらさがあります。言うべき言葉が見つかりません。自分だったらどうするのかと反芻(はんすう)しています。人としての根本である衣食住がさらわれ、ご年配の人たちが改めてスタートするには大変な困難があります。

 でもテレビ番組の取材で30年以上世界を飛び回って感じたのは、日本のすばらしさです。安全で変化に富み、美しい。そして日本人は教育が行き届き、手先が器用で勤勉です。戦後日本は変わってきたけれど、それは豊かになり、本質が寝ていただけ。これだけの災害にあって、被災地の方は変わらない謙虚さ、遠慮深さを見せています。救助の人たちにも「ありがとう」という言葉を失いませんでした。誇りに思います。

 人の心はひとつになることができます。いまこそ、互いに助け合い、生きていくことの大事さを確認したいと思います。それぞれができることをやりとげましょう。

22/04 〈世界から被災地へ〉台湾の義援金144億円集まる

2011年4月22日11時58分

 東日本大震災を受けて台湾で集まった義援金の贈呈式が21日、東京・六本木の財団法人交流協会であった。台湾外交部(外務省)によると、これまでに集まった義援金は官民合わせて144億円にのぼり、この日はその一部を日本赤十字社宛てに渡した。

 贈呈式のため訪日した台湾の王金平・立法院長(国会議長)は「(台湾での)地震や水害の際に日本が支援してくれたことを、我々は忘れていない。今回の被害を台湾の人々は自分のことのように受け止めた」と話した。

14/04 〈世界から被災地へ〉格安ツアーで恩返し 香港

2011年4月14日10時35分

 日本ツアーで成長した香港の旅行会社が、東日本大震災を受けて「今こそ日本へ」と、沖縄や大阪などへの格安ツアーを組んでPRしている。震災の影響の少ない西日本で、いつも通りに観光を楽しんでもらうことが日本への励ましになると訴え、反応も上々だ。

 毎年15万人近い香港人を日本に出している「東瀛遊ツアー」。3泊4日の沖縄旅行を4千香港ドル(約4万円)以下、4泊5日の大阪旅行を5千香港ドル(約5万円)以下と、昨年同期の半額以下で売り出した。

 3月末に広告を出して以来、連日問い合わせが300件、予約が100件近く入る。16日以降、沖縄、大阪、九州などに約50団体、1500人の客を送り込む。

 香港政府は地震発生後に岩手、宮城、福島、茨城各県への渡航禁止と、日本全土を対象に不要不急の渡航中止を勧告、業界は日本旅行の取り扱いを一斉に取りやめた。しかし、同社は「日本がすべて危険なわけではない」と格安ツアーの実施を決めた。

 25年前に日本専門でスタートした同社は、海外旅行を幅広く扱う大手に成長した。同社トップのシュアン国全(シュアン・クオチュアン)さんは「恩返ししたい。我々が冷静になることが、日本の力になる」と話す。(広州=林望)

17/04 〈世界から被災地へ〉ARIGATOに感動 「トモダチ作戦」参加の米大佐

写真:仙台空港近くの浜辺に木を並べて描かれた「ARIGATO」の文字=在日米軍提供拡大仙台空港近くの浜辺に木を並べて描かれた「ARIGATO」の文字=在日米軍提供

 東日本大震災で米軍が展開した「トモダチ作戦」に参加したトス空軍大佐(沖縄県・嘉手納基地所属)が15日、米ワシントンの記者団と電話で会見した。仙台空港上空を飛行中、浜辺で木を並べた「ARIGATO(アリガトウ)」の文字に気づき、日本人の感謝の心に感動したと振り返った。

 大佐は3月16日早朝から仙台空港の復旧に自衛隊とともに着手。同20日には輸送機が着陸できる状態まで復旧させた。

 「ARIGATO」を目にしたのは、任務終了間際の4月3日。米軍機で同空港に着陸しようとした際、長さ数メートルの木を滑走路近くの浜辺まで引きずっていく人が見えたという。文字は着陸時にしか見えない場所だったといい、大佐は「苦境にあって懸命に働いている人たちが、我々に感謝を伝えようと時間を割いてくれた。逆に日本人への感謝がこみ上げた」と語った。(ワシントン=村山祐介)

14/04 「雨ニモマケズ」ワシントン大聖堂に響く 宗派超え祈り

写真:「日本のための祈り」で、ろうそくを持って祈りを捧げる主要宗教の代表者たち=11日、ワシントン、勝田写す拡大「日本のための祈り」で、ろうそくを持って祈りを捧げる主要宗教の代表者たち=11日、ワシントン、勝田写す

 世界の主要宗教の代表者が集まり、東日本大震災の被災者のために祈りを捧げる「日本のための祈り」が11日夜、米首都のワシントン大聖堂であった。

 同聖堂のサミュエル・ロイド首席司祭が祈りを捧げたあと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のほぼ全文などが読み上げられ、ワシントン近郊在住のソプラノ歌手・嶋田貴美子さんが「さくらさくら」を披露した。

 今回のような宗派を超えた祈りの会は、昨年のハイチ大地震後にも催されている。(ワシントン=勝田敏彦)

05/04 〈世界から被災地へ〉ボサノバで支援 ブラジル

2011年4月5日10時43分

 東日本大震災の被災者を、ボサノバなどブラジルのポピュラー音楽を通じて支援しようと、サンパウロで3日、コンサートが開かれた。

 同国で活動するピアニストの矢崎愛さん(33)が企画し、日本でもファンの多いブラジル人ギタリストのフィロ・マシャード氏(60)らが参加。日本通のボサノバの巨匠ジョアン・ドナート氏が日本を応援するために作った歌も初演奏された。

 5度の訪日ツアーの経験のあるマシャード氏は、「日本人は、素晴らしく強い人々。きっと立ち直れる。頑張って」と語った。矢崎さんも、「この国で、日本を助けられることをしたかった」と話した。収益金は、同国宮城県人会を通じて日本に送られる。(サンパウロ=平山亜理)

02/04 〈生きていくあなたへ〉「活気」伝染させよう 詩人・城戸朱理さん

写真:城戸朱理(きど・しゅり)さん(51)拡大城戸朱理(きど・しゅり)さん(51)

 盛岡市で生まれ育った私だが、テレビに映る岩手の風景は見知らぬ異国の被災地にみえる。福島県双葉町の伯母一家は町ごと埼玉に集団疎開した。もう我々は「3・11」以前の日常に戻れない。

 でも人からすべてを奪うことはできない。津波は海岸の街並みを壊したが、岩手県宮古市の浄土ケ浜に家族で出かけた海水浴の記憶は消せない。海から上がった兄の足にタコがからみついていた。母が作ったおにぎり。巨岩の向こうに広がった青い海。無力感にさいなまれながらも人は何かに思いをはせることができる。大切な人を心の中に呼び起こすこともできる。

 いま日本中を重たい空気が覆っているが、被災地の感情に勝手に同調すべきでない。明治・昭和の地震を乗り越えた東北の人には強さがある。明日は見えなくても10年後の未来を想像する力。それを支える方法を考えたい。節電に配慮しつつも経済活動に励み、国全体を活気づける。暗い気分も明るい気分も伝染するのだから。

30/03 〈世界から被災地へ〉韓国募金支援 史上最高15億円超に

写真:1面で「がんばれ、日本!」キャンペーンを展開する東亜日報拡大1面で「がんばれ、日本!」キャンペーンを展開する東亜日報

 韓国赤十字社は、東日本大震災への募金額が27日夜までに約213億4千万ウォン(約15億7千万円)となり、海外の災害支援としては史上最高額を更新したと発表した。すでに約800万ドル(約6億5千万円)を日本赤十字社などに送った。

 これまでの最高は2005年にハリケーン、カトリーナが米南部を襲った際の約193億ウォンだったという。

 韓国では官民あげて日本支援にあたっており、支援額が増え続けている。有力紙、東亜日報はタイトルに日本語でも「がんばれ、日本!」と記したキャンペーンを展開。寄付活動に加わった著名人や企業・団体を紹介する一方、赤十字などを通じた寄付を呼びかける。沈揆先(シム・ギュソン)・編集局長は「隣国の不幸を黙って見ていられないと始めた。ひらがなの題字は、若い人たちの、日本語でも呼びかけようという意見を採り入れた」と話す。

 テレビ局もKBSやYTNなどは画面の隅に、募金用の電話番号を表示。電話をかければ、一定額が通話料金に加算される仕組みで、KBSの場合、これまでに約72万通話(約14億5千万ウォン)が集まったという。

 一方、韓国外交通商省は全職員から月給の0.4%を一律天引き。24日に金星煥(キム・ソンファン)・外交通商相が韓国赤十字社に約2400万ウォンを届けた。(ソウル=箱田哲也)

28/03 オノ・ヨーコ、坂本龍一さんら、NYで復興支援公演

写真:復興支援コンサートで熱唱するオノ・ヨーコさん=ニューヨーク、ショーン・ブラックビル氏撮影拡大復興支援コンサートで熱唱するオノ・ヨーコさん=ニューヨーク、ショーン・ブラックビル氏撮影

写真:復興支援コンサートで熱演するオノ・ヨーコさん(左)とショーン・レノンさん(右)ら=ニューヨーク、ショーン・ブラックビル氏撮影拡大復興支援コンサートで熱演するオノ・ヨーコさん(左)とショーン・レノンさん(右)ら=ニューヨーク、ショーン・ブラックビル氏撮影

 【ニューヨーク=田中光】東日本大震災の復興をニューヨークで支援する一連のライブ「コンサート・フォー・ジャパン」が27日夜、始まった。日本在住経験もあり、現代音楽の第一人者であるジョン・ゾーンさんの提案。4月9日まで5回の公演が決まり、坂本龍一さんやノラ・ジョーンズさんら、ニューヨークを拠点とするアーティストたちが呼びかけに応じた。

 初日の27日にコロンビア大学であったライブには、ゾーンさんのほか、オノ・ヨーコさんとショーン・レノンさん、矢野顕子さん、ソニック・ユースら、ジャンルを超えた7組が出演し、「東北に神のご加護を」「あきらめないで」などと訴えた。オノさんは「みなさんの寄付は、10倍になって返ってくる」と語りかけた。

 ゾーンさんのレコード会社に所属する作曲家にしな・あやさんが被災地の仙台市出身ということもあり、ライブの発案から48時間でチケットが完売するという勢いで進んだ。「こうしたイベントは、義援金を集めるだけではありません。人々の心を結びつけ、私たちの癒やしにつながる」とゾーンさん。8日に出演予定のにしなさんは「被災者のみなさんには、無理をしないで一歩一歩、一緒に進めたら、といいたい」。

 ライブの収益金はすべて、米国最大級の日米交流団体「ジャパン・ソサエティー」に寄付されるという。

23/03 〈生きていくあなたへ〉現地の声 代弁する 作家・高村薫さん

2011年3月23日10時55分

作家・高村薫さん


 食べ物や着るものもほとんどない被災者の方に、「がんばってください」「心配しています」なんて言葉はかけられません。何の腹の足しにもならないから。生きることだけを考えてください、どうにか生き延びてくださいとしか言えません。

 阪神大震災の時、私は大阪府内の自宅にいました。けがもなく、自宅も無事。でも同じ揺れの中で6400人の人が亡くなった。いつどこで地震が起きるかは誰にも分からない。なぜ自分は生きているのか。ひとごとではいられない。それなのに、何もできない自分の無力さに腹が立つ。ボランティアを志願しようにも活動できない状態だというし、被災者と代わることもできない。

 物書きの私にできることと言えば、声を届けられない被災者の代わりに必要な対応を求めること。被災者は生きるだけで精いっぱい。阪神大震災の経験を生かし、中長期的な再建も含めた目配りをしなければ。それが務めだと思っています。

20/03 〈生きていくあなたへ〉1億人が支える 建築家・安藤忠雄さん

2011年3月20日11時1分

安藤忠雄さん(69)

 これほどの範囲で風景が消え、物理的にも精神的にも全てが一気に奪われる事態が起ころうとは想像もしていなかった。被害が都市部に集中した阪神大震災とは違う。皆さんには掛ける言葉も思い浮かばない。私たちにできるのは、国を挙げて、国民を挙げて「サポートされている」という実感をもってもらうこと。もちろん国が立ち上がらないといけないが、国にはお金がない。1億2千万人全員で支援しないといけない。

 ボランティア活動に加え、各地で基金を作る方法もある。衣料品会社が支援を決めるなど歓迎すべき動きもすでに現れているが、すべての企業が積極的に立ち上がるべきではないか。

 国際社会の連携にも期待したいが、原子力発電所の問題も含めて、国を挙げて、国民を挙げて闘っていかないと、日本という国の信用が失われて支援を受けられない。

 大切なのは、とにかく「みんなが立ち上がる」ことだ。

18/03 〈世界から被災地へ〉「希望捨てぬ 力になりたい」 韓国隊、悲痛の捜索

2011年3月18日

行方不明者の捜索にあたる韓国の救助隊員=15日午前9時49分、仙台市宮城野区蒲生、韓国紙・東亜日報の元大淵氏撮影


 東日本大震災の被災地で、韓国の救助隊105人が行方不明者の捜索活動にあたっている。家や道路などすべてが破壊し尽くされた中で、がれきや泥をかき分ける。「生きている人がいるかもしれない。希望は捨てない。皆さんもどうかこの困難を乗り越えてほしい」――。李東星(イ・ドンソン)団長(52)が語った。

 韓国の救助隊が日本で活動するのは初めて。先発隊が12日に宮城県入り。14日に音波探知機や救助犬、消毒用の薬品、川や海の中に潜水できる器具などを携え、本隊が加わった。仙台市若林区荒浜や多賀城市の現場で3チームに分かれて捜索活動をしている。

 韓国は80年代後半から本格的に人命救助の技術を学び始め、日本の消防庁からも多くの支援を受けた。その日本で救助活動をすることに。「言葉に出来ないほどの苦痛を受けている方々のため、少しでも力になりたい」という。

 15日、仙台市宮城野区蒲生の現場。家と家は折り重なるようにつぶれ、ひっくり返った車両には鉄の棒や木材が突き刺さっている。中国・四川やハイチの被災地では、建物などの隙間に生存者がいた。しかし、今回の地震では津波が街を丸ごとのみ込んだ。「本当に心が痛んだ」

 それでも、もしかしたらどこかで助けを待ち望んでいる人がいるかもしれない――。

 汚れた家具、食器、布団、洋服などを取り除いていると、少し前までここにあった幸せな暮らしに思いが及ぶ。割れた写真立ての中から、家族の笑顔がのぞいていた。

 しかし、つぶれた車両や建物の中、下水溝の下からは次々と遺体が見つかった。日本の習慣にならい、手を合わせ冥福を祈った。

 「息子の嫁が見つからないままなんです」「会社の同僚があっちに流されていくのを見た。なんとかお願いします」。絞り出すような声だった。「捜してみます」。そう答えながら、胸が張り裂けそうになった。

 一緒に捜索する警察の人手が足りない現場では、捜索活動だけでなく、遺体の収容もした。福島原子力発電所の放射能漏れにも神経を使い、綿密に検査機で調べている。

 宿舎は現場近くの運動場にある駐車場で、テント張りの滞在。強い吹雪があると、中まで雪が舞い込む。「ありがとう」「カムサハムニダ」とお礼を言ってくれる住民たちの言葉が、支えになる。

 被災者に伝えたいことは――。そう問いかけると李団長は答えた。「どんなに大きな困難でも、どうか希望と勇気を失わないでほしい。私たちもわずかでも力になれるよう力の限りを尽くしますから」(清水大輔)

21/03 〈世界から被災地へ〉日本人3万人に「励ましの手紙」 中国の研究者

2011年3月21日10時45分

 中国で上海を中心に日本研究を専門とする学者ら300人が、日本人の知人らに「励ましの手紙」を送る運動を始める。1人100通ずつ送り、のべ3万人に気持ちを伝えるという。

 呼びかけたのは、上海市日本学会。19日に新会長に選ばれた、呉寄南氏(上海国際問題研究院学術委員会・副主任)が中国人の会員らに呼びかけた。呉氏は「日中関係は昨年の尖閣問題でぎくしゃくしたが、大災害が起きて困難なときこそ、協力し合い、復興して、美しい日本を取り戻して欲しい。その気持ちを伝えたい」。

 手紙の定型文はなく、電子メールでもいい。会員それぞれが自分の言葉で、日本の友人や同僚、留学時代の同級生らに自らの気持ちを伝える。(上海=奥寺淳)

25/03 菅首相の会見全文〈25日午後7時半〉

2011年3月25日21時6分

 菅直人首相の25日午後7時半過ぎの記者会見の内容は、次の通り。

 【冒頭】

 地震発生から2週間を迎えた。被災された多くの皆さんに、改めて心からお見舞いを申し上げます。政府は、現時点で二つのことに全力を挙げて取り組んでいる。その第1は、福島第一原発事故の事態収拾と放射能汚染へのしっかりした対応だ。第2は被災者の方々への支援と、さらに、復興に向けての準備を本格化させることだ。

 まず、第1の福島第一原発について申し上げる。東京電力、自衛隊、警察、さらには東京や大阪などからの消防隊、そういったみなさんが本当に命がけで活動をされていることに、心から敬意と感謝を表したい。昨日、被曝(ひばく)により病院に搬送された方々にも、心からお見舞いを申し上げます。安全性に十分留意し、冷却機能復旧に向けて事故対策統合本部を中心に官民一体で、さらには米軍などの支援もいただいて、事態収拾に全力を挙げているところだ。

 また一方、放射性物質の食物や水などへの影響については、自治体と連携してしっかりモニタリングをするよう、そのモニタリングの強化を進めてきた。得られた情報は、迅速に開示し、すべてを国民の皆さんに、あるいは国際社会に対しても透明性高く公開してきた。同時に、健康に及ぼす影響についても、しっかりと説明してきた。これからもこうした姿勢で臨んでいきたい。さらに、農家や酪農家など事業者の皆さんには、大きな損害を与えていることに心からおわびを申し上げたい。こうした皆さんには、確実な補償と支援を行うという点で万全を期したいと考えております。

 また、第2の、被災者支援とこれからの復興に向けて申し上げる。支援物資の供給は引き続き充実させていく。また、ボランティアの円滑な活動を震災ボランティア連携室が支援する態勢をとった。岩手、宮城、福島をはじめ、さらに茨城、千葉など、被害は広範囲に及んでいる。そうしたすべての地域をもれなく支援していく。

 その上で、今後は本格的な復旧復興にも目を向けて、準備を進めていかなくてはならない。住宅、医療、介護、教育、雇用などそうした生活の面と、同時に、漁業、農業、そして工業など生産活動の両面から、この地域全体の、そして暮らし全体の再建が必要と考えている。政府は、被災者生活支援のための対策本部を設けた。ここを中心に人材を総動員して、各地域の要望を実現できる、そうした態勢をつくった。その一環として、被災地域の行政について政府の職員も派遣をして支援する、そうした取り組みも進めたいと、こう考えている。震災に伴う負担を個人や個々の家庭だけに押しつけるのではなくて、社会全体、国全体が負担を分かち合う、こういう姿勢で臨んでいくので、どうか被災を受けられた方も勇気をふるって復興に向けて歩んでいただきたい。そのようにお願いを申し上げます。

 このように政府は、すべての能力を発揮する姿勢で昼夜を分かたず全力を挙げていることを、ぜひ国民の皆様にもお伝えしたい。そして同時に、被災を受けられた皆さんをはじめ、すべての国民がこの戦後最大の危機に対して、それぞれ力を合わせ、力をふるって立ち向かっていただいていることに心から敬意を表すと同時に、これからもその姿勢でこの危機をともに乗り越えていこうではありませんか。

 震災発生から2週間目にあたって、これからの国民の皆さんの一層の団結と、一層の、この危機を乗り越えていこうという気持ちをひとつにする、そのことをもって、今日、2週間目にあたっての私からの国民の皆さんへのメッセージとさせていただきます。

 【原発事故への対応】

 ――福島第一原発をめぐる政府の対応を聞きたい。首相が住民の方々に出している避難指示は当初の3キロ圏内から10キロ、20キロと変わり、20キロ~30キロが屋内退避となっている。今日は20キロ~30キロの屋内退避の方々に自主的な避難を要請した。この間の経緯を振り返ると、悪化する事態に対して政府の対応は後追いしているのじゃないかというのが否めない。政権の危機管理の観点から、どのように考えているのか。

 この退避の範囲については、原子力発電所の状況。また、放射性物質が気候の関係も含めて、どこにどう行くのかという予測、そして、なによりも各地域で得られたモニタリングの数値などに基づいて原子力安全委員会が中心となってその専門家のみなさんの分析、判断をいただいた上で、最終的に政府として退避の指示を出している。そういった専門家のみなさんの判断を尊重した対応で、これまでもあったし、これからもそうした姿勢で臨んでいきたい、こう考えている。

 ――首相は現段階での原子炉、福島第一原発の現状をどのように認識しているのか。また、収束させるメドについてどう考えているのか。さらに、避難指示の範囲を拡大する考えはないのか。

 今日の福島第一原子力発電所の状況は、まだまだ予断を許す状況には至っていない、悪化を防ぐという形で対応しているが、予断を許す状況にはなっていないという認識を持っている。引き続き、極めて高い緊張感を持って一つ一つの事態にあたっていかなければならない局面が続いている、このように認識している。

 【被災者支援】

 ――現在も多くの方が避難所で苦しい生活を余儀なくされている。仮設住宅についてどういうスケジュール感を持っているのか。

 仮設住宅については震災発生直後から国交省、大畠国土交通相を中心に、関係方面にその仮設住宅に使うプレハブの発注などを進めてきている。早いところでは月内にもそういう作業が始まるのではないかと思うが、いずれにしても大変大規模な震災なので、しっかりと地元の皆さんの希望を聞いて対応していきたい。それぞれ、先ほど申し上げた被災者支援対策本部において、そうした計画をしっかりと立てて進めていきたいと考えている。

 【原発事故への対応その2】

 ――日本政府は20キロ圏内の住民に避難指示を出しているが、各国政府は大使館などを通じて80キロ。在日外国人に不安が広がった。日本政府が諸外国とうまくコミュニケーションをとれていないのではないか。情報が必ずしもすべて出ていないのではとの指摘もある。どのように改善していくのか。

 まず最初の点は、先ほども申し上げたが、退避の範囲については原子力発電所の状況とか、放射性物質がどう拡散していくのかという予測、さらには各地域で得られたモニタリングの数値などを中心にして原子力安全委員会、これは専門家の皆さんの集まりなので、この皆さんを中心に専門家の皆さんに分析、判断をしていただいたうえで、そこの助言、あるいは勧告をいただいたなかで退避の範囲を決めている。

 各国の考え方について、それぞれの国による基準が設定されていると思うが、我が国がそれらの国に対してしっかりと情報を提供するというのは当然のことだし、それに努めている。この間、いろいろな形で各国に情報提供をしているが、例えば各大使館、あるいは英語による記者会見など状況についてすべての国々、あるいは国際機関に透明性高く情報提供をしていて、その点については各国政府からも我が国の情報提供については十分透明性があるというふうに理解が深まってきているものと、このように認識している。

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22/04 菅首相の会見全文〈22日〉

2011年4月22日22時1分

 菅直人首相の22日の記者会見の全文は次の通り。

 【冒頭】

 「前回、大震災発生から1カ月目の記者会見を行った。それから約10日たち、この間に、さらに前進したこと、さらには、これからの方針、方向性について私のほうから国民のみなさんに説明をしたい。今後も、そういう形をとれればと思っている。まず、昨日、福島県を訪問した。その中で被災者の方に何人もお会いしたが、一番耳に残った言葉があった。それは、私のうちは今、アメリカよりも遠いんですよ。アメリカなら十数時間で行くことができるけれども、私のうちには何週間も場合によっては、何カ月も、かかっても帰れないかもしれない。なんとか早く帰れるようにして欲しい。その言葉が一番耳に残った言葉だった。何としてもこの原子力事故によって、家を離れなければならなくなっている皆さんが一日も早く自分のうちに戻れるように政府として全力を挙げなければならない。改めてそのことを強く感じた」

 「こうした中、昨日、警戒区域を設定し、本日は計画的避難区域と緊急時避難準備区域を設けた。この措置は、住民の皆さまの安全、健康を最も重視して決断した。内容については既に官房長官などから詳しく説明をしているが、特に警戒区域というのは、いわゆる原子力発電所から20キロ圏内において、基本的には避難をすべての人がしている。中には治安上、窃盗などがあるのではないかという心配もある。そういった中で今回、警戒区域という形で、法律的にその中には入れないという位置付けにした。それと同時に、中に住んでいる皆さんには、一時的に家に立ち寄ることができるような、そういう形をこれから順次、計画的に進めてまいりたい。着の身着のままで避難された方が、一時的にうちに戻って必要なものを取ってくることができるような、そういう対応をしてまいりたい」

 「福島第一原発事故の今後についてだが、既に17日に東電から今後の見通しについて工程表が提示されている。政府としては、この工程表を予定通り実現する、ステップ2は、ステップ1の3カ月に加えて、さらに3カ月から6カ月となっているが、できることなら、なるべく短い期間の間にそれを実現する、そうすれば、その中から、避難した皆さんに対してどういう形で戻ることが可能なのかを提示することが、ステップ2が終わった段階に立ち入れば、できるのではないかと考えている」

 「この間、復旧が次第に進んできている。仙台空港の再開、東北線の全線開通など、着実に前進している。さらに本日は、第1次補正予算の概算を閣議決定をした。来週、がれき処理など復旧のための補正予算を国会に提出し、連休中には成立できるよう努力をしたい。さらに、震災関連の法律を順次、国会に提出してまいりたい」

 「当面、仮設住宅の整備が大きな課題だ。各県で仮設住宅の建設を精力的に進めて頂いており、感謝をしている。政府も資材確保などに全力をあげており、自治体が場所を決めて提供できる場所を決めて頂いて、その中で、作業を急ぎたい。5月末までには3万戸を完成させたい。最終的には仮設住宅、あるいは借り上げ等含めて10万戸を避難される方に提供できるようにしていきたい」

 「また、こうした復旧が進む中で、復興の議論も本格化してきている。14日には復興構想会議の1回目が行われ、あすは2回目となる。6月末をめどに、この復興構想会議で復興の道筋、あり方について、提言をまとめて頂くようにお願いをしている。復興は、単に元に戻すという復旧ではなくて、すばらしい未来をつくるという復興であってほしい。そのことも多くの皆さんと共有している考えだと思っている」

 「この復興を考える上で、私はさらに今回の大震災、原発事故の危機が一つの危機ではなくて、危機の中の危機だ。このように位置付けしている。つまり、我が国は、この20年余り、経済的にも成長が低迷し、社会的にも自殺者がなかなか3万人を切らないといったような、多くの課題、社会的な、ある意味での危機を経験しつつあった。そうした中に、この大震災、原発事故という危機がまさに発生した。危機の中の危機の発生、このようにとらえて参りたい。そして、この二つの危機に対して、同時に、この危機を解決していくことが今、私たちに求められている。もっと言えば、この復興ということは大震災を契機に、多くの国民が、自分たちが何とかしなければという思いを強くして頂いている。その思いを本当に力にかえて、この復興をバネにして、もともとの危機を含めて、二つの危機を乗り越えていく。つまり日本再生が東日本の復興を支え、一方では、東日本の復興が、日本の再生のさきがけとなる。こういう形で推し進めて参りたい」

 「そして、そうした考え方において、マクロ経済面を含めた今後の日本再生の全体的方針を提示をするため、連休明けには、本日も朝行いました経済の見通しを立てる会議を通して全体の方向性もお示し、大きな方向性をお示しできるようにしたい。そして、こうした復興構想会議の努力やマクロ経済の見通しなどを踏まえて、いよいよ復興そのものを実施していく体制、仮称ではありますが、復興実施本部というものを検討しなければならない。この大きな復興には自由民主党や公明党など各党のご協力が不可欠だと考えている。この復興実施本部について、ぜひともこうした自民党、公明党はじめ各政党のご協力をお願いしてまいりたい」

 「そして、今回の大震災で亡くなられた皆さん、私はその皆さんが声なき願いを私たちに強く伝えて頂いているように思えてならない。それは、生き残った皆さんが、私たちが力を合わせて素晴らしい日本をつくってほしい、こういった願いだと思っている。私自身、この大震災の時に総理という立場にあった。一つの宿命だと受け止めており、こうした亡くなられた皆さんの、その願いを実現するために私にもてるすべての力を全身全霊を振り絞って、その実現に向けて頑張りたい。この気持ちを改めて強くいたしている」

 「こうした中にあっても、各国からの我が国に対する支援、あるいは激励は続いている。先日はクリントン・アメリカ国務長官がわざわざお見舞いと表敬に立ち寄っていただいた。昨日はオーストラリアのギラード首相が来られ、明日、オーストラリアの救援隊が救援活動を行った地域に自ら足を運んで頂く予定になっている。本日は経済協力開発機構(OECD)のグリア事務総長とも意見交換をした。こういう皆さんがわざわざこの時期、日本にかけつけて頂いて激励を頂く。そして日本は必ず再生する、そういう強いメッセージを世界に発信して頂く。さらには日本でいろいろな地域を視察をすることを通して、日本が決してある部分を除いては安心して外国人も来ても大丈夫なんだ、いろんなものを食べても大丈夫なんだ、そういうことを発信して頂いていると思っており、特にそうした発信が我が国を助ける本当に大きな力になる。あらためて感謝を申し上げたい。いずれにしても、そういった皆さんの期待にこたえて、原発事故も含め、開かれた形で国際社会と協働して、復興と再生を進めてまいりたい」

 「前回の会見において、過度ないろいろな催し物の自粛をやめて活気を取り戻すことが被災地の支援につながるということを申し上げた。しかし、まだ一部には自粛ムードが続いているようだ。そんな中で、私も視察に訪問した陸前高田市では数百人の皆さんが集まる花見会が催されたと聞いている。がれきのなかから見つけ出した太鼓が演奏されて、被災者を元気づけたと聞いている。こうした集い、お祭りは古くからの地域のきずなを強め、活気をもたらすうえで大変大事な行事であると思う。被災地では今後、仙台の七夕祭り、盛岡さんさ踊り、相馬野馬追など、こうした中ではあるけれども、いや、こうした中であるからこそ、今年も開催するという地域がどんどん出てきている。その勇気に敬意を表し、日本全国でこれらのお祭りを応援してまいりたい」

 「多くの皆さんが応援の気持ちをもって接している中で、一部に思いやりに欠けるような対応があるという指摘もあるが、そうしたことがないようにお互いに気を付けてまいりたいということも国民の皆さんにお願いしておきたい。来週からは連休で、今年は観光に出かけるのは控えようと言われている方も多いかもしれない。しかし、できることなら、先ほど申し上げたように、この東日本、東北におけるいろいろな催し物に参加をするために出かける。あるいは、そうした地域で採れた野菜や、あるいはお酒を買い、いろいろな民芸品を買って、それらの地域を元気づける。中にはボランティアとして応援に行こうという方も多いのではないかと思う。どうかこのゴールデンウイークが、そうした被災地の皆さんを元気づける、そういうゴールデンウイークになるよう、それぞれの立場で考え、行動して頂けることを期待し、私の話にさせて頂きます」

 【復興実施本部】

 ――復興実施本部の立ち上げと野党側の参画を呼びかけたが、復興実施本部はどのような権利や責任を有する会議体を考えているのか。野党への呼びかけは現在、国民新党の亀井代表が行っているが、他党の代表がなぜこういう大事な呼びかけを行っているのか。亀井代表は、総理が地位に恋々としないと伝えていると言っているが、総理は復興にメドがたったら退陣も辞さない決意なのか。亀井さんとどのようは話をしているのか。

 「まず実施本部のあり方については、過去のいろいろな例などは調べている。そのあり方そのものも含め、できることなら野党の皆さんとも協議をして形作ってまいりたい、このように思っている。呼びかけについては、連立を組んでいる国民新党の亀井代表の方から、自分もそうした自由民主党や公明党など各党の皆さんが参加する形が望ましいと思うけれども、菅はどう思うか、ということを聞かれ、それはそういう形がとれるものなら大変ありがたい。その方向に向けて、亀井国民新党代表がご努力頂けることは大変ありがたい、と申し上げているところであり、そういうことを受けて、亀井代表がいろいろと努力をして頂いている。このように理解をいたしている。そして、この大震災と原子力事故のことは、先ほども申し上げましたように、私がその時に総理という立場にあるというのは、ある意味で私にとっては宿命だと、このように受け止めている。その意味で、この事態に対して何としても復旧、復興、そして二つの危機を乗り越えていく道筋を作り出していきたい。そうした道筋が見えてくれば、政治家としては、まさに本望だと、このように考えている」

 【組織の乱立】

 ――原発担当大臣を置く考えはあるか。原発や震災、復興の会議や本部が乱立しているが、整理統合する考えはないか。

 「この大震災、加えて原子力事故ということで、それぞれ政務三役、これまでの平常時というか、大震災発生以前の仕事に加え、大変大きな仕事を抱えて、まさに不眠不休でそれぞれ頑張って頂いている。そういった意味で、現在の大臣や政務官、副大臣、補佐官というものは法律で定員が決まっているので、できることならもう少しその定員を増やさせて頂いて、それぞれの問題にさらに有能な方にそうした立場で加わって頂きたいと考えている。その意味で、内閣法改正について、自民党や公明党各党の皆さんにも、この間、幹事長などを通して話をしている。まだ実現していないが、ぜひともご理解頂ければと思っている。また、たくさんの本部があって色々わかりにくいのではないかという指摘がある。基本的には二正面作戦をやらざるを得ない状況にあるということについてはぜひまず理解頂きたい。つまりは地震津波という自然災害、これに対しては緊急災害対策本部、法律に基づいて義務づけられたものを設置した。一方で原子力の重大事故に対しても、原子力災害特別措置法によって、法律で義務づけられた本部を設けた。それぞれの本部、一部に被災者支援などでダブる部分もあるが、例えば補償の問題や色々な避難の問題のあり方については、それぞれ違った制度や違った意味を持っているので、その意味で二つの大きな本部を設け、それぞれのもとに例えば避難のため、補償のためそれぞれのある意味での実行部隊を設けた。その名称が本部という形で重なっている関係もあって、あるいは皆さん方に複雑に見えているかもしれないが、基本は二つの本部の下の色々な課題を取り組むチームというかプロジェクトチームのようなものとこのように理解頂ければ分かりやすいと思う。それに加えて、党としての色々な活動もあるので、その党の本部は、内閣の本部とは性格を異にしている。しかしいずれにしても、かなり多岐にわたっているので、また時期によっては状況が変わってくるので、もう少し整理ができないかということで現在、官房長官のところで整理をする方向で調整している」

 【復興財源と消費税】

 ――復興財源を増税で賄う考えはあるか。とりわけ消費税引き上げを考えているか。

 「まず、第1次補正予算については、いわゆる国債ではなくて、従来の色々な支出項目を振り替えたり、そういう形で、概算の提案を致している。その次の本格的な復興のための第2次補正は、相当の規模になるであろうと、これは大方の方がそう見ているし、私もそう見ている。その場合に、その財源をどういう形で調達するのか、それは時間的な問題と内容の問題とがある。まずはやはり復興作業を進める上で、財源がないから作業が始められないといったことは決して望ましくない。そういった意味では、必要な財源は一時的には国債等の活用も含めて、そうしたものに充てていくということが必要になる。その場合に、そうした国債等について、どういう財源でいつ頃までに償還をするのか、そういうことが大きな議論として存在していることは私も承知している。こういった問題についても復興構想会議でも色々と既に意見が出ているようなので、これからの議論に待ちたい。この場合には、将来に対する色々な見通し、あるいはマーケットがどのように日本の国債市場を見ているか、そういったことも含めながら、しっかりとした議論をして参りたい」

 【世界へのメッセージ】

 ――世界は放射能汚染を心配している。世界へメッセージを発信してもらえないか。

 「この間、私も一つは色々な支援に対するお礼の意味を込めた広告を各国の新聞などに掲載をお願いした。また、私の書いた文章を各国の新聞に寄稿し、かなりの新聞等がそれを載せてくれた。その中で日本というこの国が、例えば食べ物などにおいても危ないものは市場には出していない。そういったことを含めて安全性について理解を求める、そういったことも行っている。これからも更にそうした外国から来て頂くことによる発信も大変ありがたいが、もちろん我が国自身の色々な機会を通しての発信を強く進めて参りたい」

 【警戒区域】

 ――警戒区域設定の発表から実施まで短かったこともあり、現地でトラブルが生じている。家畜やペットの避難についても方針がないまま実施されたことで野党から批判の声も出ているが、そこまで緊急性あるという認識をもって実施したのか。また、場合によっては強制手段も致し方ないとの認識か。

 「ご承知のことかと思うが、福島第一原発から20キロ範囲についてはかなり早い段階で避難区域という形で指定した。基本的にはその中にいて頂くと健康上の問題が生じる可能性があるので、避難をして頂きたいという要請だ。今回の警戒区域は、法律に基づくという意味で、確かに法律上の罰則規定といったものがあるが、基本的な考え方は、この範囲は住民の健康や安全を考えると避難をして頂いていなければならないという考え方では特に変わったわけではない。実際には、この間は、自分の家に帰っていた方もある程度いたが、基本的には説得をしていきたい。法律があるからすぐに強硬な規定を適用して強制力を行使するということでなくて、基本的には説得をするという形で対応したい。きょう公安委員長とのほうともそういう話をした。それに加えて、その地域に住んでいる皆さんが一時的に戻って、必要なものを取り出してくることができるような態勢を今から順次進めていくので、そういう形で理解頂けるのではないかと思っている。確かに、家畜とかペットとかの問題もあり。本当にご不便をかけ、あるいはご迷惑をかけるが、自治体ともこの間かなり丁寧に話をしてきたので、今申し上げたようなことも理解頂ければ、多くの住民にとってはそうした形の方が安心できる形ということで理解頂けるものと思っている」

 【東電の工程表】

 ――東京電力の工程表の実現が厳しくなった時、国民の衝撃は大きい。そうならないための国の対応の準備はできているか。

 「17日に東電が工程表を発表した。ステップ1は3カ月がメドで、ステップ2は6カ月ないし9カ月となっている。国の立場としては東電が自ら作成し提示した工程表が実現できるように、国として協力できること、やれること、全力を挙げて協力し、ともにやっていくことがまず何よりも重要だ。いろいろな課題があるので、いろいろなことが進んだ後にまた新たな問題が生じてきているのがこの1か月余りなので、どのような展開になるかをすべて私が予測することは残念ながら不可能だ。しかし、東電が出した工程表は、国も含めて取り組めば十分実現可能なものだと考えている。さらに言えば、想定されるあらゆる事象に対しても、あらかじめそういう事象が生じた場合にどうすべきか、こういったことについてもいろいろ同時並行的に検証なり検討をしている。そういうやり方で、何とか工程表の中で、物事が進むように全力を挙げるというのが政府の立場だ」

 【2次補正と国会会期】

 ――2次補正だが、復興構想会議が6月末に提言を取りまとめるということで、提言を待って編成するのか。その際、国会は閉じるのか。

 「復興構想会議には6月末をメドに考え方をまとめて頂きたいということはお願いしてある。そのことと、それを踏まえて、どのような形でどのような規模の第2次補正を組むかということは、やはりその内容などを含めて、その時点あるいはそれに至る過程の中で考えるべきことだ。今の段階で、そのメドが6月だから国会をどうするということまではまだ考えていないというか、まだその段階ではない。まずはこの国会で1次補正と関連する法案と、もともと提案しているいろいろな従来の課題を国会で議論し成立させることがまず今の課題であって、その後のことにつていままだ申し上げる段階ではない」

24/04 被災者の心―地域に広いケアの網を

 津波の被災地では今週から多くの学校が再開した。過酷な体験をし、心に不安や苦しみを抱えた子にどう接するか、先生たちは悩んでいる。

 避難所では怒りっぽくなったり、不眠を訴えたりする大人が増えている。子どもは急に甘えたり、多弁になったりする。突然「津波ごっこ」をして、周囲を驚かせる幼児もいる。

 あれだけの大災害だ。気が張りつめた時期を過ぎると、心の動揺が様々な変調になって表れる。それは誰にだって起こりうる正常な反応だ。

 被災者に接する人や親、先生がそのことを理解し、「大丈夫ですよ」と伝える。被災者が自然に力を回復するのをそばで見守り、「つながっている」という感覚を持ってもらう。心身をリラックスさせる工夫を、避難生活にとりいれる。

 震災1カ月余りが過ぎ、とても大事になってくることだ。

 阪神大震災後、被災者の心のケアが必要だという理解が広がった。今回も、全国から精神科医らのチームが現地に入った。文部科学省もスクールカウンセラーらを派遣する予定だ。

 被災者には家や就労の問題ものしかかる。行政が出来る限りの対策を打とう。それでも新たなストレスとなり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)やうつ病が慢性化する心配がある。どう防ぎ、対処するか。

 数週間で交代する派遣型でなく、医師、保健師、精神保健福祉士、臨床心理士といった専門家を被災地に増やす。彼らの連携による「心のケア態勢」を地域に築くことが必要だ。

 精神医療への敷居はまだまだ高い。避難所や仮設住宅を回って相談に乗りながら、心の状態に気をつける。診察を受けに来やすい拠点を保健所などに設ける。そんな工夫を考えたい。

 目の前にはがれきの街が広がり、今も家族に会えない人がいる。津波では人を助けようとして犠牲になった例も多い。喪失感に加え、自分だけ生き残ってしまったという感覚が、人々の心を苦しめる。

 「津波てんでんこ」という言葉が三陸地方にある。「津波では他人に構わずてんでばらばらに逃げろ」といった意味だ。岩手県で活動をした臨床心理士の小沢康司・立正大教授は、社会がこの言葉を繰り返し発信し、教訓を伝えると同時に、自責の念を和らげるメッセージにできないかと、提案している。

 被災地が力を取り戻し、再建する長い過程を、社会全体が後押しする。そのことが「心の復興」にもつながるはずだ。

24/04 チェルノブイリ―福島事故で教訓新たに

 チェルノブイリ原発事故の発生から26日で25年になる。広大な放射性物質の汚染地では苦難が続いている。福島第一原発でも重大事故が繰り返された今こそ、旧ソ連で起きた悲劇の教訓をしっかり生かしたい。

 事故の被害はなお甚大だ。地元ウクライナでは、原発から半径30キロが居住禁止のままだ。

 時間をおいてがんなどが発症する放射線被害の特徴から、事故が原因の死者を国際原子力機関(IAEA)は、今後の数も含めて4千人と推定する。だが専門家の間には、汚染地の広大さから数十万人の死者が出るとの見方もあるほどだ。

 住民の移住や健康対策、経済への打撃などで、事故発生から30年間に受ける被害総額をウクライナは約15兆円、放射性降下物が大量に落ちた隣国のベラルーシは約19兆円と見積もっている。ベラルーシでは、国内総生産の実に5倍近い額だ。

 事故炉に残る核燃料などを封じ込めてきたコンクリート製の「石棺」改築などにも、国際社会は2200億円を負担する。

 日本では政府や産業界が「事故はソ連の炉だから」と違いを強調し、原発建設を積極的に推進してきた。今からでもチェルノブイリ事故の貴重な経験を学び取り、福島の事故対応にも反映させていくべきだ。

 この節目にウクライナでは先日、原発の安全性をめぐる首脳級の国際会議が開かれた。潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は福島の事故も受けて、原子力安全基準の徹底見直し、地震、津波等の自然災害やテロに対する核施設の保安強化などを訴えた。

 原発を当面使い続けるうえで当然すぎる指摘だ。しかし、原発をめぐる世界の状況は四半世紀で大きく変化している。

 チェルノブイリ事故では、共産党支配下での秘密主義や非効率な管理体制が重大な背景となった。いま原発は、共産党支配を維持する中国やベトナム、多くで強権的な長期支配の続く中東諸国に広がりつつある。こうした地域での原発の安全確保には、透明性や説明責任を担保する体制の確立が不可欠だ。

 原発に対するサイバー攻撃の問題もある。核開発疑惑が指摘されるイランで、核関連施設に制御装置を混乱させる攻撃を受けた疑いが出たことで、脅威は現実化した。福島の事故の後で米政府などは、原発をはじめ産業・軍事面の重要施設が抱えるサイバー攻撃に対する脆弱(ぜいじゃく)性を警告し始めている。

 国際社会は原発をめぐるこうした新たな事態にも、早急に取り組んでいく必要がある。

03/02 Á hậu Thiên Lý đẹp dịu dàng

Cập nhật lúc :1:54 PM, 03/02/2011
Trong tà áo dài truyền thống, Dương Trương Thiên Lý khoe vẻ đẹp trong sáng, dịu dàng, đằm thắm của người phụ nữ Việt.
Lê Phương

11/02 Phạm Băng Băng khoe đường cong quyến rũ

Cập nhật lúc :4:35 PM, 11/02/2011
Dưới ống kính của nữ nhiếp ảnh gia nổi tiếng Chen Man, nàng Hoa đán trông thật dịu dàng, nữ tính nhưng cũng đầy cá tính và mạnh mẽ.

>> Phạm Băng Băng được mời đóng phim tiền tỷ của Hàn Quốc
>> Phạm Băng Băng tát Lưu Đức Hoa đỏ tay

Đã bước sang tuổi 30 nhưng Phạm Băng Băng vẫn là một trong những nữ diễn viên đắt sô chụp hình nhất Trung Quốc. Bộ ảnh cô thực hiện cùng nữ nhiếp ảnh gia Chen Man đã thể hiện được nét quyến rũ, đằm thắm của người phụ nữ tuổi 30. Trong những khuôn hình này người xem cũng cảm nhận được một cá tính mạnh mẽ, cứng rắn ẩn bên trong sự nữ tính, dịu dàng của người đẹp họ Phạm.

Chiêm ngưỡng Phạm Băng Băng qua ống kính của Chen Man:

Nguyệt Hằng (theo Chenmaner.com)