Sunday, April 10, 2011

(2)歴史と将来見通しは

基礎からわかる原子力発電

災害に強いシステム急務

 「人類の奇跡的発明を、人類の生命のためにささげる」

 日本の原子力開発は、1953年12月の国連総会で、アイゼンハワー・米大統領が演説した「原子力の平和利用」宣言でスタートした。

 エネルギー争奪戦となった第2次大戦に敗れた日本にとって、復興のためにも自前のエネルギーは必要だった。翌54年4月、初の原子炉建設関係の予算が成立、55年に「自主・民主・公開」に基づく原子力基本法が国会を通過した。

 在米日本大使館で“科学外交官”を務め、米国の原子力技術の導入を橋渡しした向坊隆・元東大学長(2002年没)は、「米国は核兵器開発に投入した膨大な資金回収を、日本は将来のエネルギーを確保するという両者の意図が一致した」と語っている。

 56年、茨城県東海村に日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)を設立し、63年、国内初の発電用原子炉「JPDR」の発電を成功させた。この間、電気事業連合会加盟の電力会社などが出資した日本原子力発電も設立され、産官学一体となった原子力推進体制が整っていった。

 国内初の商業用軽水炉、日本原電敦賀原発1号機が運転を始めた70年、大阪開催の万国博覧会へ送電され「原子の灯」と紹介された。

 順調な<航海>に陰りが出たのは、74年の原子力船「むつ」の放射線漏れ事故で、海外では79年、米国スリーマイル島原発で炉心溶融事故が発生。86年、旧ソ連のチェルノブイリ原発で爆発事故など、原発の安全性を揺るがす深刻な事故が続いた。

 マスメディアの受け止め方も、大きく変化した。

 日本原子力研究開発機構の佐田務さん(57)は、「むつ事故までの新聞、教科書の大半は『原子の火』への期待が中心だったが、スリーマイル以降、反対の視点が増えた」という。内閣府の世論調査では、70年代まで利用に賛成が6割だったが、80年代以降は4割を下回る時代が続いた。

 しかし87年度には、日本の発電総量の約3割を賄うまでになり、高度成長、技術立国化を支えた。高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故(95年)、核燃料加工会社「JCO」で臨界事故(99年)も起きたが、温室効果ガスの排出抑制という動きに伴い、排出量の少ない原発の活用見直しが世界的に進んでいた。

 こうした時期に、今回の事故は発生。津波被害で原子炉は冷却手段を失い、水素爆発や核燃料棒の一部溶融など事故は連鎖的に拡大した。放射性物質の放出を食い止め、周辺環境の汚染をどう回復させるか、溶融した核燃料棒は取り出せるのか――数年がかりの課題が積み上がった。

 世界は「フクシマ」後の原子力利用をどう見ているのだろうか。ドイツなど反原発の市民運動は高まりを見せているが、メディアの論調は冷静だ。米ニューヨーク・タイムズ紙は「米国の原発も非常用電源の拡充を図るべきだ」、英オブザーバー紙も「人類の主要なエネルギーとして残る」と、災害を克服する意志を示している。

 元原子力安全委員長の松浦祥次郎・原子力安全研究協会理事長(75)は、「これからも原子力を活用するなら、これを教訓とし、より災害に強いシステムを整える必要がある。エネルギーをどう考えるか。我々利用者も考え、判断することが求められている」と話す。

日本の原子力開発・事故史
1945.8広島・長崎に原爆投下
  53.12米大統領が、国連で「原子力の平和利用」を訴える
  54.3米国によるビキニ環礁の水爆実験で日本の漁船の乗組員が被曝(ひばく)
  54.4日本初の原子力予算が成立
  63.10茨城県東海村で、国内初の発電用原子炉が発電に成功
  70.1日本原電・敦賀1号機が運転を開始
  74.9原子力船「むつ」で放射線漏れ事故
  79.3米・スリーマイル島原発で炉心溶融事故
  86.4旧ソ連のチェルノブイリで原発事故
  95.12もんじゅでナトリウム漏れ事故
  99.9茨城県東海村の核燃料加工会社「JCO」で臨界事故。作業員2人が死亡
2010.5もんじゅが運転再開
  11.3東日本巨大地震で、東京電力・福島第一原発が被災


(2011年4月1日 読売新聞)

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