古代ギリシャのある国の人々がデルフォイの神殿で戦勝の見込みについて神託を求めた。下された神託は侵攻先で「やかましい足音で踊れ」というものだった。戦勝の踊りの予言と思った人々はすぐにその地方に攻め込んだが、意外にも敗北する▲敗兵は足を鎖につながれ、奴隷とされた。鎖の音、それが「やかましい足音」だった。「デルフォイの神託」は、今日でもさまざまに解釈できる言葉のたとえとされる。実はこの神託、時代を下ると神官がギリシャ全土に配置した密偵の情報をもとに作られたという▲場合によって神官が賄賂をもらい、相談者の情報を政敵にもらしたりしていたというから油断ならない。つまりデルフォイは諸国や諸勢力間の情報戦の舞台で、あいまいな神託が政治的駆け引きの結果だったこともあろう▲さて菅直人首相の早期退陣とひきかえに不信任案否決という党内抗争収拾の神託が下りたはずだった民主党だ。ところが首相は不信任案の否決後すぐに早期退陣を否定した。首相と共に神託を作ったという鳩山由紀夫前首相は菅氏を「ペテン師」呼ばわりする始末だ▲抗争収拾の神託とはいっても、実はそれぞれの政治的都合を切り張りした玉虫色の合意だ。首相の肩を持つつもりもないが、言葉の軽さと前言の撤回をさんざん見せた前首相の「首相のうそ」への非難も失笑を招こう。国民にとっては、どだい神殿の奥の密議である▲首相退陣をめぐる抗争はくすぶり続けるが、いいかげんに政治も少しは仕事をしてはどうか。政治家が耳を澄ますべきは怪しげな神託ではなく、国民、とりわけ今は被災地の声以外にはない。
毎日新聞 2011年6月4日 東京朝刊
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