「ストレスは大変なものだった」。スリーマイル島原発の同僚作業員たちと記念につくったTシャツや当時の識別票を前に語るリチャード・レッシュさん=米ペンシルベニア州、田中写す
スリーマイル島原発の放射能除去作業の際、リチャード・レッシュさんは防護服に身を包み、バルブ室に入った。インスタントカメラで撮った写真の日付は1980年6月13日とあった=本人提供
スリーマイル島原発は現在も稼働中だ。対岸には、32年前に事故があったことを伝える看板が立つ=米ペンシルベニア州ミドルタウン、田中写す
収束の兆しが見えない福島第一原発事故。米国で最悪といわれる1979年のスリーマイル島原発事故をくぐり抜けた電力会社の作業員や住民にとっては、決してひとごとではない。32年前を振り返りながら、懸命に作業を続ける福島の人たちにエールを送る。
「福島の作業員は、現代のサムライだ。彼らは、自らの寿命が縮まる恐怖を抱きながら、作業をしているはずだ」。米東部ペンシルベニア州のサスケハナ川の中州にあるスリーマイル島原発から車で2時間の自宅で、リチャード・レッシュさん(73)は「サムライ」という言葉を繰り返した。
レッシュさんは当時、原発を運営していた電力会社の送電部門の作業員だった。原発の知識は全くなかったが、1週間の研修を受け、事故から約2カ月後の5月から原発施設の放射性物質の除去作業に入った。志願に基づいていたため、「給料は全然、変わらなかった」。年齢制限や家族構成などの条件もなかったという。
放射能から身を守る防護服での作業は、困難を極めた。あらゆるつなぎ目をテープで保護するため、装着するのに40分ぐらいかかる。20キロ近い氷を入れたベストを付けたこともある。特殊なマスクでは、普通の8割ぐらいしか息ができない。視野も狭く、同僚作業員との会話もできない。
そして、薄い防護服の外は見えない放射能で充満しているという恐怖が常につきまとい、自分の心臓の音が聞こえたように感じた。「まるで宇宙空間での作業だった」。嘔吐(おうと)して窒息しそうになったり、閉所恐怖症でパニックになったりした同僚もいた。「なんで俺はこんなことをしてるんだ」と何度も思った。
被曝(ひばく)量を抑えるため、1回当たりの作業は最長でも30分程度に制限された。ただ、4週間作業して4週間休むというシフトが約2年間、続いたものの、どれだけ被曝したのか、会社から聞いたこともないし、その後の健康被害の調査も受けたことがない。「今さら、考えても仕方がない」
幸い、いまのところ体に異変はないという。しかし、「我々の場合は、放射能で汚染された場所が限られていたが、福島は範囲が広いように見える。彼らの方が恐怖心は大きいはずだし、身体に影響が出るのではないか」と心配する。
スリーマイル近くの住民も「福島」の行く末が心配でならない。25キロ離れた州都ハリスバーグで、市民団体のエリック・エプスタインさん(51)は、毎日、原発周辺の放射能を監視する。「スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島に共通するのは、政府や電力会社からの情報は頼りにできないということだ。ここで再び事故があるとは思いたくないが、自ら、情報を入手する手段は持っておきたい」と話していた。
スリーマイルはいまも稼働する。近くの対岸を訪れると、蒸気をはき出す二つの巨大な冷却塔の隣に、下部の鉄骨がむき出しになったままの冷却塔が二つ並んでいるのが見える。(米ペンシルベニア州ミドルタウン=田中光)
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〈スリーマイル島原発事故〉1979年、ポンプ故障などで冷却水が失われ、炉心が溶融。8キロ以内の幼児と妊婦に避難、16キロ以内に屋内退避が勧告され、1週間余り後に解除された。放射性ヨウ素の放出は限定的で、住民の推定被曝量は健康影響が無視できる程度とされたが、炉心に相当の損傷があったため「レベル5」(施設外へのリスクを伴う事故)と認定された。
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