2011年4月9日 朝刊
東日本大震災による津波で集落のほとんどが流された福島県南相馬市小高区村上集落。福島第一原発から二十キロ圏内で、震災から間もなく一カ月となる今も、住民が行方不明の肉親を捜すことすらできず、地震、津波、原発事故の三重苦にあえぐ。一部の被災地で復興の動きが始まりつつある中、全国に散った集落の住民は、取り残されることがないようにと必死に声を上げている。 (中山高志)
◆おぶった母は水の中に
防災無線の塔だけが残った村田渉さんの自宅付近=4日、福島県南相馬市で(村田渉さん提供) |
「母を捜したい。それが一番」
横浜市内の兄の家で避難生活を送る同集落の兼業農家村田渉さん(52)は三月十一日、自宅から二キロの勤務先で地震に遭い、母キヌ子さん(82)が心配で自宅に戻った。母をおぶって壁の陰に隠れたところ、津波にのまれた。水の中で意識が薄れた。われに返り、夢中でもがいて、がれきの上にはい上がった時、背に母はいなかった。
その後、福島市の親戚宅などを経て横浜市内に移ったが、避難指示地域に含まれる集落の捜索は進まず、生き別れた母の行方は分かっていない。
今月四日、村田さんは兄と「二十キロ圏」境界を越え、自宅を訪れた。だが、一帯はがれきの山で、自力で母を捜すことはかなわなかった。家は一階部分がほぼ全壊し、コンバインや田植え機もつぶれていた。水田も海水に浸された。「終わったな」。あらためて絶望感が襲った。
「肉親を見つける問題を解決しないと、次に進めない」。村田さんは訴える。「そのためには、まず原発の放射能の問題を何とかしてほしい」
◆妻は不明、長男は遺体で
同集落の会社員村津一夫さん(61)は地震発生時、福島第一原発4号機の格納容器近くで、配管を取り換える仕事をしていた。自宅には妻(63)と、たまたま通院のために会社を早退した長男(39)がいた。
原発から車で五時間がかりで家を目指した。しかし、集落は水浸しで近づくことができず、近くの役所で一夜を過ごした。十三日、南相馬市内の高校にある安置所で、まだきれいな長男の遺体を見つけた。
原発事故で多くの住民が遠くに避難した後も、村津さんは同市内に残った。同僚宅に世話になりながら、妻の遺体があるのではないかと数日おきに遺体安置所に足を運んだ。自宅近くにも行ったが、水浸しで近づくこともできなかった。
「妻が生きている可能性が一パーセントでもあればいいけど…。とりあえず遺体を捜して、息子と二人で一緒に墓に入れてやらねえと」。素朴な口調に悲しい思いがにじむ。
◆隠れた被害「忘れないで」
「完全にバラバラです」。故郷から数百キロ離れた長野県豊丘村。南アルプスと天竜川を望む避難施設で暮らす同集落区長の佐藤信之さん(63)は、こういって住民の安否確認名簿を見つめた。大阪、横浜、静岡、群馬、そして故郷の南相馬市…。行き先は多岐にわたる。「集落の存続の危機ですよ」
太平洋に面した標高約三〇メートルの丘を中心に約七十世帯の家が並び、その周囲に水田が広がる。ほかの地域からの人の出入りは少なく、昔ながらのまとまりが残っている。
佐藤さんによると、約三百人いる集落の住民のうち、約二百人の生存は判明している。一方、死亡が確認されたのはわずかで、約六十人は行方不明のままだ。
佐藤さんは最近、震災の報道で「復興」の二文字を見るたびに、焦燥感に駆られる。「私たちにとって、まだ災害は終わっておらず、その真っただ中にいる。集落の被害は原発事故の陰に隠れたまま。私たちのことを忘れないでもらいたい」
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