Wednesday, September 21, 2011

21/09 君が代裁判―維新の会は立ち止まれ


君が代裁判―維新の会は立ち止まれ

 いわゆる日の丸・君が代裁判で、最高裁が口頭弁論を開くことを決めた。
 「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するように」という校長の職務命令に従わず、東京都教委から停職処分を受けた元教員2人がその取り消しを求めた訴訟だ。1人は過去に5回、もう1人は起立斉唱命令違反だけで3回の処分歴がある。
 東京高裁は今年3月、「処分が適切かつ合理的だと評価するものではない」と異例の付言をしつつ、「教委に裁量権の逸脱や乱用があるとはいえない」と述べて請求を退けている。
 民事訴訟法は「上告の理由がないと認めるときは、口頭弁論を経ずに上告を棄却することができる」と定めている。つまり弁論を開くということは、この高裁の結論が見直される可能性が高いことを意味する。
 教育現場や公務員の規律をめぐる議論に大きな影響を与える判断になるのは間違いない。
 君が代問題で最高裁は、5~6月に相次いで言い渡した判決で「起立斉唱を命じることは思想・良心の自由を保障した憲法に違反しない」と判断した。一方で「間接的な制約となる面がある」と指摘し、多くの裁判官が処分は抑制的であるべきだという見解を示していた。
 大阪府の橋下徹知事が、命令に複数回違反した教員は免職とするルールの確立を唱えていた時期だ。私たちは社説で、最高裁が説く全体像を理解して慎重に対応するよう求めた。
 しかし知事が率いる大阪維新の会は、「同じ職務命令に3回違反した者は直ちに免職」などの内容を盛り込んだ条例案を、きのう始まった府議会に提出する方針だ。11月に想定する知事と大阪市長のダブル選挙の争点にする構えともいう。
 ここは立ち止まって考え直したほうがいい。弁論を開いた後に言い渡される判決の中で、最高裁がどんな見解を示し、結論を導き出すのか。そこをしっかり見極めるべきだ。
 処分を行政の裁量に任せず、条例で定めることに意義があると橋下氏はかねて主張する。だが硬直した制度にすることにどれほどの利益があるのだろう。処分はその公務員がした行い、動機、背景、結果、処分が社会に与える影響などを総合的に判断して決めるのが道理ではないか。条例に書かれているからといって、行き過ぎた制裁が認められるわけではない。
 橋下氏は弁護士資格をもつ。最高裁が弁論を開くと決めたことがどんな意味を持つか、十分わかっているはずだ。

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