「経済村」には論理的には正しいかもしれないが、いささかデリカシーというか人への気遣いを欠く人が多いような気がする。
米国にハフィントンポストという情報サイトがあり、なかなか参考になる。しかし、地震の数日後、ネイサン・ガーデルという人が書いた「日本の地震の明るい側面」という記事はいくら何でも能天気過ぎる気がした。
日本は成熟経済なので投資機会がなく経済が沈滞していた。しかし、この地震で巨大な復興需要が発生する。特に新エネルギー分野は期待できる。経済は活気を取り戻すだろう。母なる自然は財政も中央銀行もできなかったことをやろうとしている、と。
やれやれ、何と浮かれたことを言うのだ。だが、復興需要に着目し、大震災を「チャンス」とする議論が少なくない。
こうしたなか、異色だったのが米ハーバード大のラリー・サマーズ教授だ。今度の震災をうけて、「日本は前より貧しい国になるだろう」と言ったそうである。
この人はクリントン政権の財務長官として、またオバマ政権の経済顧問として、米国の経済運営をになってきた人だが、親日的とは言い難い。むしろ「意地悪」だった印象が強い。
だから、それぐらいのことは言うかなと思ったが、調べてみると震災から10日ばかり後にニューヨークで開かれたアジア・ソサエティーのパネルディスカッションでの発言だった。
ただ、これは単純に「日本はもうダメだ」と言っているわけではない。19世紀フランスの経済学者フレデリック・バスティアの「破れ窓の誤謬(ごびゅう)」を踏まえた発言だ。それは次のような話である。
ある商店でこどもが窓を割ってしまった。これは一見、経済に損を与えたかに見えるが、実はガラス職人に仕事を与え、経済がその分活発になるのだから損失ではない。そういう考え方にバスティアは反論する。「ガラスが割れなくてもガラス職人は何らかの仕事をしていたはずだ。国家にとってはガラスが割れた分だけ富を失っており損失は損失なのだ」と。
話が長くなったが、サマーズ氏は今回の日本はちょうどそれと同じだと言うのである。長期的には復興需要で経済成長する可能性があるが、しかし、富が失われたのは動かせない事実であり、日本はその分貧しくなったのだと。
ごくまっとうな話であって、大騒ぎする必要はない。ただ私には意図せずして日本の先行きを暗示する言葉のように聞こえた。
今回の大震災を境に日本は「3・11以前」と「3・11以後」では様変わりしていく予感がする。エネルギー制約が格段にきつい経済にならざるをえないからだ。
国は2030年には電源の48%を原子力にする青写真を描いていたが、それにむけての増設はもとより、既存の原発への依存度も縮小するよう求める声が強まるだろう。石油やガス、石炭での火力発電は中国やインドなどとの資源の奪い合いでコストが急騰する。
太陽光や風力、地熱など自然エネルギーへの転換は大いにやればいいが、どこまで化石燃料を代替できるか疑問に思う。JR山手線の内側に太陽光パネルを並べても原発1基分にしかならない(笑うべきデマだという環境論者もいるが)のだから。
小幡績慶応大准教授は、エネルギー多消費型産業は海外移転するほかないと言う。それが論理的必然ではないか。日本から雇用が流出し、サマーズ氏の「日本は貧しくなる」が実現してしまいそうなイヤな予感がする。
だが、「災害と経済成長」を扱う経済学の常識では、先進国においては災害は成長を妨げないそうだ。それどころか、冒頭の楽観的な記事のように、飛躍のチャンスという説さえある。どちらの見方が正しいのだろう。
私は低エネルギー社会への移行は不可避だと思う。とすれば、仮に経済成長=所得が低下しても、それなりに心豊かに暮らせる社会にしなければならない。助け合いがカギ。これまではそんなことを口にすれば笑われた。3・11以降は逆。それが現実に対処する唯一の方法になったのである。
(専門編集委員)
毎日新聞 2011年4月13日 東京朝刊
No comments:
Post a Comment