非常時には流言飛語がつきものである。1910年にハレー彗星(すいせい)が地球に接近した時も、彗星の尾が地球に触れて人類が滅亡する、いや空気が彗星にさらわれて窒息するといったうわさが流れ、空気をためるタイヤチューブが世界的に売れたという▲別の例はチェルノブイリ原発事故だ。被ばく覚悟の危険な任務に4人の消防隊員が選ばれ、彼らの隊長に消防本部長は3リットルのウオツカを差し出した。「勇気がでるように、血のめぐりがよくなるように、放射線から護(まも)るように」出発前に飲めというのだ▲隊長は拒否した。愚かな上司だと思ったのだろう。だが隊長は出発後、飲酒は放射線に効果的かもしれないとの「俗説」を医者から聞かされ、ウオツカを取りに戻ろうとしたと、英国の作家ピアズ・リードが「検証チェルノブイリ刻一刻」(文芸春秋)に書いている▲作業に従事した隊員が次々に倒れたのは言うまでもない。ウオツカを飲んでも同じだったろうが、わらにもすがろうとした隊長をどうして笑えよう。100年前、タイヤチューブを買った人々を笑うことも難しい。だが大切なのは危機の実相を見定めることである▲彗星がいよいよ近づいた5月19日、小紙の前身、東京日日新聞は「彗星恐るるに足らず」として「種々の迷信を抱くは敢(あえ)て東洋諸国許(ばか)りでなく文明国と誇る欧米にも随分ある」と書いた▲宣伝めいて恐縮だが、この冷静さに学ぶべきだと自戒を込めて考える。福島の原発事故は種々の風評を生み、内外で怪しげな情報が独り歩きする。海外向けの広報も大事だ。が、日本人が理性的に振る舞うことこそ最善の広報に違いない。
毎日新聞 2011年4月10日 東京朝刊
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