Sunday, October 9, 2011

09/10 辛亥革命100年―新たな日中交流の機に


干支(えと)で辛亥(かのとい)の年にあたる100年前の10月10日、中国の長江中流域、武昌で清朝に対する蜂起が勃発した。これが引き金になって、アジアで初の共和国である中華民国が誕生し、清朝は倒れた。辛亥(しんがい)革命である。

革命を主導した孫文の理想は、民族、民権、民生という三民主義の実現だった。

孫文は袁世凱との対立、亡命などの苦闘を続けたものの、国民党による統一政権は見ることはできずに世を去った。遺言は「革命未(いま)だ成らず」だった。


その国民党政権も共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾に逃れる運命をたどった。

そんな辛亥革命が100年たっても輝きを失わないのは、やはり、中国大陸で連綿と続いた専制王朝を崩壊に導いたという歴史的意義があるからだろう。

「革命の最も堅固な支持者であり、最も忠実な継承者」とする共産党は、台湾との統一を見据えて様々な記念行事を開く。

しかし、孫文が訴えた民主制を求める「民権」や、行政と立法などの権力分立は受け入れていない。そこが健全な発展の足かせとなっていて、国民の不満の原因でもある。とても、革命の忠実な継承者とは誇れまい。

一方で、台湾は民主化を果たした。民主化は言論の自由を保障し、野党からは「大陸で生まれた孫文と台湾は関係ない」との声も聞かれるほどだ。

日本で辛亥革命が関心を集めるのは、多くの人々が幅広い支援をしたからだ。また、日本留学経験者が革命の主力を担ったことも注目される一因だ。

しかし、現実の日中関係は昨年秋の尖閣諸島沖衝突事件の影響から抜け出せていない。

菅直人・前首相は施政方針演説で「孫文には、彼を支える多くの日本の友人がいました」と語った。これは、革命100年を日中関係改善の糸口にしたい意欲の表れだったのだろう。

しかし、革命の日本人関係者には無私無欲の人もいたが、中国利権を目指した野心家が多かった。清朝への配慮などから当時の政府は孫文に冷淡だった。

そして革命から20年後には満州事変が起きた。日本は孫文の求めた「王道」ではなく覇道で中国を侵略した。

そんな歴史を凝視せず、辛亥革命のいいとこ取りをしただけでは、安定した友好関係は築けまい。来年は中華人民共和国と国交樹立して40年を迎える。

節目の年に次の100年を視野に入れ、政府と民間は重層的な関係構築につとめるべきだし、大国の地位に戻った中国も未来志向で臨んでもらいたい。

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