湯川秀樹博士と司馬遼太郎さんが某日、京都の料亭で歓談した。その時、博士はおかみをつかまえ、“一見(いちげん)さんお断り”のしきたりについて「あれはなぜですか」と問うたそうだ▲ノーベル賞学者の御下問におかみはこう答えた。魚屋も酒屋もみなツケで、翌月請求書が回ってくる。それまで金額が分からず、現金払いで帰るお客さんに勘定ができないから……。明快な説明に「湯川さんは、世にもうれしげだった」と司馬さんは書いている▲いやそれだけが理由ではあるまい。生粋の京都人を自任していた梅棹忠夫さんは「京都は観光都市ではない」が持論で、観光化は「たいていの場合、文化の破壊である」と半世紀も前に喝破。一見さんは何をするか分からず、「お断りしたほうが安全だ」と料亭の本音を代弁していた▲福島第1原発事故のあおりで外国人観光客が潮が引くように日本から離れている。影響は西日本の京都や奈良にも及び、ホテルや旅館が苦慮している。とんだ風評被害で、早急な支援が必要だが、一方で移り気な外国人頼りの「観光立国」の危うさもあらわになった▲日本文学研究者で、コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさん(88)が日本永住を決意したという。「外資系の会社が社員を日本から呼び戻したり、野球の外国人選手が辞めたり、『危ない』と言われたりしているが、そういうときにこそ、私の日本に対する信念を見せる意味がある」とNHKインタビューで語っていた▲胸が熱くなった。一見さんも誠意をもってもてなすことはもちろんだが、こんな良質なごひいきを大切にすることこそ日本の心意気だ。
毎日新聞 2011年4月24日 東京朝刊
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