Friday, March 23, 2012

平安・女のバトル 待賢門院と美福門院


2012.3.23 16:30 (1/3ページ)ベテラン記者コラム

種類が多く、いろとりどりのハスが楽しめる花の寺、法金剛院。待賢門院ゆかりの寺で知られる=京都市右京区(塚本健一撮影)
種類が多く、いろとりどりのハスが楽しめる花の寺、法金剛院。待賢門院ゆかりの寺で知られる=京都市右京区(塚本健一撮影)
 日本史上、男ほどではないが、有名な女同士のバトル、もしくはライバル対決というのはある。紫式部と清少納言の才女対決しかり、その主人である2人のキサキの定子と彰子しかり。いま大河ドラマでもヤマ場を迎えているこの2人、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)と、美福門院得子(びふくもんいんなりこ)のバトルもすごかった。ドラマでは壇れい(待賢門院)と松雪泰子(美福門院)の美女対決になっているが、ともに鳥羽上皇の“妻”で次代の天皇の母という栄華を極めた女性であって、同じ藤原氏の中での権力闘争もからんでしれつ、哀切を極めた。
身分の差
 どちらも皇后位にのぼるが、出自(身分)に差があった。実家の力というのは女の地位を大きく左右する。待賢門院の父は大納言、かたや美福門院の父は権中納言。特に待賢門院は少々フクザツな生い立ちで、早くに父を亡くし、当時の最高権力者だった白河法皇に養われた。これは決定的な二人のバックグラウンドの違いで、さらに待賢門院は、年の差なんと50歳以上、祖父ともいえる白河法皇と男女の関係にあったという噂は有名である。後の戦のタネにもなる危険な関係。それを官能的に描いたのが渡辺淳一著「天上紅蓮」(文芸春秋)だ。
 さて、一方の美福門院は皇子を産んでから着々と権力を増す。小説ではあるけれど、源氏物語の光源氏の母(桐壺更衣)などは皇子を産んでも宮中のいやがらせに体調を崩して亡くなった…が、そういうタイプでなかったのは確か。皇子誕生の数カ月後にはその子を皇太子につけ、自身もキサキの位では皇后につぐ「女御(にょうご)」におさまる。さらに2年後、皇子は即位して近衛天皇になった。退位させられた崇徳天皇は、ライバル、待賢門院の息子である。う~ん、熾烈(しれつ)。
歴史的結末は
 2人の女性の生涯をみると、さてどちらが“勝者”といえるだろうか。よく描かれるのは、お嬢様そだちの待賢門院と、野心的美女の美福門院という構図。たしかにそれは歴史的な結果としての事実から類推できる2人の像である。
 待賢門院は、美福門院の権力が増すにつれて権勢を失い、ついには皇后になった美福門院を呪ったという呪詛(じゅそ)事件まで関連をうわさされるようになって仏門に。ほどなく、44歳くらいで亡くなった。しかしその息子は2人天皇になり(崇徳、後白河)、後白河は後の権力者になっていく。
 美福門院の方はというと、息子(近衛)は天皇になるが10代で崩御。そこで終わらないのがこの女性の強さで、天皇家や藤原氏の思惑が複雑に交錯するなかで政治手腕を発揮し、この時代の大きな2つの戦、保元の乱・平治の乱でも政治を動かした。その後、こちらも43~44歳で亡くなる。頭の切れる女性だったのは間違いない。
西行こぼれ話。出家の動機は…
 ところで、歌人として有名な西行法師が待賢門院に恋をしていた…という逸話がある。妻子を捨てていきなり20代で出家した西行の動機があれこれいわれるうちの1つだが、嘘かまことか。大河ドラマでもその説を取り入れているが、「幼い娘を縁側から蹴り倒した」というエピソードまで“忠実に”再現していたのはいただけなかった。(と思ったのは私だけだろうか?)
 【法金剛院】関西花の寺めぐりなどでも有名で、特に夏のハスが見事。境内の浄土式庭園は国の特別名勝。すぐ近くに妙心寺があり、ゆっくり散策するには楽しい地域である。http://www.hana25.com/index.php?option=com_content&view=article&id=74&itemid=68/ 
山上直子山上直子
産経新聞編集委員。平成3年入社、大阪新聞経済部、産経新聞京都総局、文化部を経て現在に至る。京都出身、大阪育ち、現在は京都在住。歴史と文化、グルメ、グッズ、その他もろもろ詰め込んで、「魅力と魔力に満ちた京都」をご案内。


No comments:

Post a Comment