江戸の奇才で、日本版ガリバー旅行記のような戯作も書いている平賀源内は、当時「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれた小笠原諸島の開発計画を立てたという。多くの住民を移住させて、区画整然たる開拓を行い、自らが首長になるというものだったらしい▲さすが考えることが江戸時代離れしているが、今となっては夢想に終わってよかったというべきなのだろう。「無人島」というのは、17世紀の延宝年間に幕府が漂流民からの報告を基に行った探検の際につけた地名である▲「島には清水があり、多くの南方系の樹木のおいしげっているまことに楽しい豊かな土地のように見えた。……日本人はこの地をフジン島と呼んだ。そこには住民がいなかったからだ」。長崎にいたドイツ人医師ケンペルは日本人によるこの探検結果をそう報告した▲これまで一度も大陸と地続きになったことのない海洋島で、その中で独自の進化をとげた固有種の多い「東洋のガラパゴス」である。その生態系にとって何よりの幸運だったのは、19世紀前半まで文字通りの無人で、その後も大規模な開発を免れたことかもしれない▲おかげで一つの種からの多彩な進化のプロセスを目の当たりにできる「進化論の島」なのもガラパゴス同様だ。だがそのガラパゴスが観光地化によって一時は危機遺産に登録された今日である。小笠原でも人が持ち込んだ外来種により多くの固有種が絶滅にひんする▲世界遺産登録はその生態系を守る島民の協力のたまものだ。日本人にとっては地球からの預かり物にほかならない島の自然だが、今では人の努力なしには後の世に残せない「無人島」の富である。
毎日新聞 2011年6月25日 東京朝刊
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