Monday, May 9, 2011

07/05 天声人語

2011年5月7日(土)付

 漱石の「坊っちゃん」に、坊っちゃんと盟友の山嵐が牛鍋をつつく場面がある。江戸っ子の坊っちゃんは何かにつけて気が短いらしい。会津っぽの山嵐は「そこの所はまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと条虫(さなだむし)が湧くぜ」と注意する▼実際にその心配があったかどうかはおいて、確かな冷蔵技術もない時代である。生ものへの警戒心は今より強かったのだろう。もう聞くことも少ないが、「鯖(さば)の生き腐れ」や「夏の鰯(いわし)で足が早い」など、用心を促す言い習わしも色々と流布していた▼そんな場面や諺(ことわざ)を思い出させる、焼き肉チェーン店の集団食中毒だ。生肉のユッケを食べた4人が死亡し、20人を超す重症者が出ている。警察が捜査に着手し、人気の生食への信頼は揺らいでいる▼生食用の表示がなくても、店で衛生基準どおり調理すれば客に出せる。だが基準は行政指導にとどまり罰則はなく、店によっては厨房(ちゅうぼう)という密室で形骸化していたようだ。お上の規制がすべてではないが、これでは「食の安全」も神話のように覚束(おぼつか)ない▼古来、危ない食べ物の代表といえばフグだが、あの美味を好んだ人は多い。〈男の子われ河豚(ふぐ)に賭けたる命かな〉日野草城。しかし現代の、家族や仲間で囲む焼き肉である。その席が「肝試し」になるようでは客はかなわない▼冒頭の山嵐の忠告に坊っちゃんは「大抵大丈夫だろう」と答える。自分で食べるならそれでいい。しかし業者や政府が「大抵大丈夫」では困る。「大抵」を取り去る策が急務だ。

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