2011年5月4日(水)付
思い知らせることを「目に物見せる」と言うが、今の米国は「声を聞かせてやった」だろうか。思い出すのはブッシュ前大統領が9・11テロのがれきに立って、犠牲者と国民に語った姿だ▼「君たちの声が私に聞こえる。世界が君たちの声を聞く。ビルを倒した連中も間もなく我々の声を聞く」。そのテロを首謀したオサマ・ビンラディン容疑者を10年がかりで討ち取った。留飲を下げたかのような、人々の高揚が伝えられている▼ここ10年、米国は良いことが少なかった。アフガニスタンでの戦争は泥沼化している。イラク侵攻は「大義なき戦争」の汚名にまみれた。強欲資本主義は破綻(はたん)し、リベラルと保守は憎み合い、連邦議員が銃で撃たれた――そうした中の勝報である▼とはいえ、その印象はどこか、「ビンラディン狩り」というゲームに勝っただけのような実体の希薄さがある。米国民の歓喜は、「ビンラディンを生んだもの」への想像とまなざしを、いつもながらに欠いていないか▼宮沢賢治に「二十六夜」という物語がある。仲間を人間にやられた梟(ふくろう)たちが復讐(ふくしゅう)を叫ぶのを、梟の坊さんが諭す。「仇(あだ)を返したいはもちろんの事ながら、それでは血で血を洗うのじゃ。こなたの胸が霽(は)れるときは、かなたの心は燃えるのじゃ」▼歓喜の一方で報復を不安がる図は、梟の坊さんの言うとおりだ。テロの背景には貧困と差別、憎悪の荒野が広がる。それをどう沃野(よくや)に変えるか。火薬で退治できるのは、たぶん大したものではない。
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