◆鴇沢(ときざわ)哲雄
◇支え合うことの大切さ痛感
政治的な迫害や地域紛争などから逃れて日本で暮らす難民たちの多くが、東日本大震災に心を痛め、被災地支援を続けている。私は外国人居住者が多い埼玉県南部の川口市で、国を持たない世界最大の民族といわれるクルド人と、ベトナム戦争後に故国を離れて命がけで海を渡ったボートピープルたちの復興支援を取材し、埼玉県版で記事にした。国外退去の不安。決して豊かでない生活。これらの状況下でも、難民たちは被災者に心を寄せる。国際化や多文化共生が声高に叫ばれる今、難民たちの「被災地への献身と涙」を知ってほしい。
◇クルドの祭りで寄付集め送金
私が「ネブロス」の取材を始めたのは2年前。それまで、クルド問題については、かつてフセイン時代のイラクで毒ガス攻撃により数千人が殺害されたこと、トルコで武装闘争が続いたことなどを断片的に知るだけだった。
クルド民族はトルコのほかイラク、イラン、シリアなどの国境地帯に2500万~3000万人が住むとされる。自治や独立を求めてきたが、複雑な国際政治に翻弄(ほんろう)され続けた。日本には90年代以降、観光ビザなどで入国し、川口市を中心に300~400人が住んでいるとみられる。故国での迫害を理由に多くが難民申請しているが、NPO「難民支援協会」(東京都新宿区)によると、難民認定を受けたケースは一件もない。
私が初めて取材したクルド人男性(39)は、18年前に来日。建設現場で働き、妻と3人の子どもと暮らす。クルド文化をもっと日本人に知ってもらいたいと話していたが、思うようにいかず悩んでいた。大震災への思いを聞くと、「家族をみんな亡くしたお母さんが、思い出の写真を捜して歩くニュースを見て(私の)奥さんが泣いたよ。子どもも泣いた。僕も泣いた。クルド人は悲しいことばっかりで生きてきたから、被災者の気持ちが分かる」と言った。「一度、被災地へ行き手助けしたい」の言葉に熱い思いを感じた。
◇「助けてくれた日本人に恩返し」
一方、ボートピープルの「今」を知る機会となったのが昨年8月、「ベトナム出身者が福島の避難所で炊き出しをする」との知人からの知らせだった。川口市のカトリック川口教会を拠点にして福島県いわき市の避難所を訪問。3回に上った活動では300~1000食のベトナム料理をふるまった。費用は寄付やバザーなどの収益金でまかない、前日から泊まりがけで準備。おしゃべりしながら春巻きに具を詰めたり、スープを作ったりする姿が印象的だった。
75年のベトナム戦争終結後、旧南ベトナムからは政府・軍関係者や都市の商工業者らを中心に、粗末な漁船などを使っての国外脱出が続いた。国連推計では、ボートピープルの総数は約80万人。日本は約1万1000人のインドシナ難民を受け入れ、うちベトナムからのボートピープルは3500人に上る。
横浜市内の老人福祉施設で働くグエンティ・ゴックさん(48)は30年前、仲間88人と小さな船で祖国を脱出した。1週間後にエンジンが故障し水も食料も尽きた。1カ月間漂流し「死を覚悟した」が、幸い、イタリアの貨物船に救助された。被災地支援の理由を聞くと「日本人は私たちを助けてくれたから、恩返し。難民と被災者の気持ちは同じだから涙が出た」と話す。埼玉県ではさいたま、越谷、八潮など各市のベトナム人グループが、仲間からの募金を実行。それぞれが20万~30万円を集め、被災地に送っている。彼らは「日本人の力になりたい」と口をそろえた。
「難民支援協会」は震災後、ボランティアとしてクルド人(21人)をはじめ、アフリカ諸国やミャンマーなど100人を超す難民を被災地に送り出した。担当者は「母国へも帰れず、逃げ場のない難民たちは、被災者とふれあい、自分の存在を実感できた。被災者も温かく迎え入れてくれた」と話す。言葉の壁や仕事の悩み、将来への不安、子どもの成長や仲間との語らい……。私は難民たちを取材して、その苦労の中にも、日常の生活があるのを垣間見て、彼らを身近に感じた。互いに理解し、支え合うことの大切さを痛感する。
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