Saturday, May 21, 2011

16/05 枝野官房長官の会見全文〈16日午前〉

2011年5月16日14時13分

 枝野幸男官房長官の16日午前の記者会見全文は次の通り。

 【冒頭】

 本日16日、原子力災害対策特別措置法第20条3項の規定に基づき、福島県の一部地域、原子力発電所から半径20キロ圏内を除く田村市と新地町で採取される露地栽培の原木シイタケについて出荷制限を解除することとし、福島県知事に指示した。

【世論調査】

 ――各社世論調査によると浜岡原発停止要請について多くの国民が支持する一方、内閣支持率が低迷していることについてどう思うか。

 「いつも申し上げている通り、個別の世論調査の数字については直接のコメントは控えたい。浜岡原子力発電所の停止については様々な意見や立場のあるところだが、引き続き政府としての考え方をより多くの皆さんにご理解頂けるよう努力をして参りたい」

 ――原発政策の見直しに国民の期待が大きいことについてどう考えるか。

 「今回の東京電力の原発事故という事態を踏まえて多くの国民の皆さんが原発の安全性について強い関心をお持ちであるというのは当然のことだろう。そうした国民の皆さんの声をしっかりと受け止めながら、国民の安全安心をしっかり守るという観点から事故の検証も踏まえつつ、しっかりと検討して参りたい」

 【北方領土】

 ――ロシア副首相らが択捉など北方領土を訪問したが、政府の受け止めは。

 「今回の件に限らず、ロシアの要人が訪問を続けていることは日本の原則的立場と相いれるものではない。わが国の国民感情を傷つけるものであり、大変遺憾だ。本日朝、松本外相がベールイ駐日ロシア大使を招致の上、ただいまのような趣旨の申し入れをした」

 ――毎回同じように遺憾だと言っているが、政府の取るべき対策は。

 「ロシア政府やその関係者が何度繰り返しても、日本政府の原則的立場が変わるものではなく、むしろわが国の国民の感情をより大きく傷つけるものであって、ロシアにとって何の得にもならないことだ。繰り返しそのことをロシアに対して伝えていく」

 ――今回の訪問は閣僚が5人、日本のビザなし訪問団が訪問中に入っている。実効支配を誇示する意図があるとの見方についての受け止めは。

 「ロシア側がどういう意図をお持ちであったかは分からないが、いずれにしてもこうしたことが繰り返されることはわが国の国民感情を傷つけるものであって、同時にいくらくり返してもわが国の原則的立場はいささかも変わるものではない。むしろロシアにとって何の益もないことである。このことを繰り返しロシアに伝えて参りたい」

 【IMF専務理事逮捕】

 ――IMF専務理事がNYで強姦未遂容疑などで逮捕されたが受け止めを。

 「指摘の報道については承知をしているが、個別の刑事案件についての直接のコメントは差し控えるべきだろうと思っている。なお、IMFの機能については筆頭副専務理事のもとでしっかりと機能していると理解している」

 【東電の合理化】

 ――東京電力の清水社長が国会で、現時点では退職金や年金については削減を検討していないとの考えを示したが、どう思うか。

 「あまり東京電力の置かれている社会的状況を理解されていないなあと改めて感じた」

 ――何らかの削減が必要だと。

 「具体的にはこれから第三者委員会を設けて、しっかりと様々な内部の状況について、政府としても把握をしていきたい。それは国民的にもその情報は共有をして参りたい。それを踏まえて具体的に進めて参りたい」

 ――東京電力の組織のあり方として、昨日玄葉大臣が発電と送電の分離にも言及したが、事業形態の見直しも今後あり得るのか。

 「選択肢としては十分あり得る」

 【米空母艦載機の陸上離着陸訓練】

 ――艦載機の着陸訓練を鹿児島県の馬毛島の移転することを検討するとの報道があるが、検討状況は。

 「報道は承知しているが、空母艦載機の着陸訓練地については米軍の運用上の必要性などを踏まえて検討中であって、現時点で具体的な候補地を特定しているものではない」

 【原発の炉心溶融】

 ――東京電力が15日に福島原発のメルトダウンの分析結果を公表。政府はメルトダウン発生を認めない方針か。

 「いずれにしても原発の状況については、停電や計器が壊れている等の状況によって取得できるデータに大きな制約がある。従って残念ながら原子炉内で発生した事象を正確に把握することは現時点も含めて困難な状況にある。この間、むしろ周辺環境の状況、つまり周辺における放射線量などに基づいて、そして原子炉の状況がさらに悪化する可能性を踏まえて避難のお願い等をしてきた。また、より悪化させないためのあらゆる可能性を想定した対応をしてきた。今回、こうした状況の中、事故発生当時に比べより具体性のあるデータが入手されるようになってきたことを踏まえて、東京電力において一つの解析の結果がでたので直ちに公表されたものと承知している。現在、原子力安全・保安院でその解析等について報告を受けて、政府としてもその解析を行っている。残念ながら原子炉の中の燃料が溶けてしまっていたという状況については、これは私自身は専門家ではないが、専門家の意見含めて残念ながらそういう状況であるという風に認識せざるを得ない。そうしたことの中で周辺住民の皆さんにはご無理をお願いし、避難をして頂いているので、さらなる原子炉の状況の悪化を阻止し、そして事態を収束させ冷温停止に持っていくという工程表について、そうした分析も踏まえた中でさらに改善をすべきところがあるかどうか検討している」

 ――12日時点で保安院の中村審議官が炉心溶融の可能性を言っていて、結果的に事実を言っていたのに翌日、会見の担当を外れた。政府は事実隠蔽(いんぺい)する意図があったのではの見方もあるが。

 「保安院の広報担当をされていた方でしょうかね。そこまで別に官邸で直接把握をしていない。どういう理由でどういう方が会見を担当しているのかということについては、直接承知していない。それから、メルトダウンの可能性のあるということについては、メルトダウンという言葉がいろんな意味でとらえられる、特に印象の面でとらえられる。つまり、いわゆるチャイナシンドロームのような状況から、あるいは言葉の普通の直訳的な意味からすれば燃料のごく一部が溶けている場合といろんなパターンがあるということの中で、燃料の溶けている可能性ということについては、当初から政府としても可能性を踏まえた中でそれをいかに小さく抑えるか、阻止するか、起こっているとすればそれをさらに被害に結びつかないようにするかということで対応してきた」

 【計画的避難】

 ――飯舘村などで計画的避難が始まったがずいぶん遅れた受け止めと、飯舘村は場所によっては積算放射線量が16ミリシーベルトに達していることについて、どう考えるか。

 「実際に避難を始められた皆さんには、本当に大変つらい思いをさせている。まさにこれからの避難生活で大変厳しい状況を余儀なくされるということで、大変申し訳なく思っている。飯舘村や川俣町はじめ、地元の皆さんには住民の皆さんの思いというものを踏まえながら避難をお願いするという大変厳しい、この間プロセスを対応してきて頂いて、このご尽力には御礼と感謝を申し上げる。積算放射線量がもちろん日々高まっていくが、積算放射線量は一つの仮定の下においているものであり、計画的避難区域等に指定されている、あるいは住民の皆さんにもかなり広く放射線量についての情報が周知をされている状況の中では、8時間屋外にいる等の前提になっている仮定とは、かなり違った生活パターンをされていると思うので、そうした意味では、当面の目標数字である年20ミリシーベルトに達することのないように、順次避難をして頂けると思っている」

 【北方領土】

 ――ロシア閣僚の訪問に関連し、ロシア軍幹部が巡航ミサイル装備などの更新を明らかにしたが、政府として遺憾の意を伝えること以外の取り組みは。

 「まずロシア側がどういう意図があって様々な行動を取っているのかは別としても、我が国の原則的な立場は変わることはない。我が国における国民感情を悪化させるだけに過ぎない行動をロシア政府として取っていることは、外交的にも意味がないことだ。これに対してどうやって対応するのかということについては、相手のある外交案件なので、あらかじめこういう手を打ちますということを言ってしまったら、外交的駆け引きにはならない。現時点で何をしたかということだけ申し上げる」

 【計画的避難区域】

 ――計画的避難区域の関連で、民主党側から放射線量の低い特養や工場の操業について例外的に認めてくれるようにという要請があったと思うが、政府の対応は。

 「安全ということについては、最優先をしなければならない。それから、様々な状況にある皆さんのそれぞれにご無理をお願いしている。ある意味での公平性というのも確保、担保しなければならないと思っているが、その二つの前提の上で地元の皆さんの声あるいは客観的な様々な状況を踏まえて、柔軟な対応をする必要があるということでそうしたことも含めて地元の身さんと協議、調整をしながら進めている」

21/05 天声人語

2011年5月21日(土)付

 昭和おやじの勝手をいえば、高校野球にドームと人工芝は似合わない。時々刻々、空模様や日の高さで変わる甲子園の表情こそが、夏の熱戦の後景として球史を彩ってきた。胸に迫る場面が炎天下とは限らない▼55回大会の作新学院―銚子商。8回から降り始めた雨が激しさを増す延長12回、作新の「怪物投手」江川卓の夏は押し出し四球で終わる。〈わたしは雨を愛した詩人だ/だがわたしは江川投手を愛する故に/この日から雨が/きらいになった〉。サトウハチローが贈った詩の一節だ▼カクテル光線も激闘に花を添える。準々決勝を1日で消化していた頃、第4試合がもつれてナイターになるのが好きだった。例えば56回大会の鹿児島実―東海大相模。1年生三塁手、原辰徳が輝いた相模だが、延長15回で力尽きた▼どちらの試合も、同世代として熱くなったのを覚えている。前者は下校路の電器屋で、後者は夕食時の家で見た。甲子園の熱はかように、もっぱら午後の時間帯に発散されたように思う▼今年の93回大会、決勝のプレーボールが午前9時半と決まった。例年通り昼過ぎからだと、テレビ観戦がエアコン使用のピークに重なるためだ。ナイターを避けようと、準決勝までの第1試合も午前8時に早まる▼選手もファンも勝手が違うが、これも節電のため。平均的な試合は2時間20分前後なので、史上初の「午前の決勝」は昼時には終わろう。みんなが元気になりたい夏、とっておきの感動は少し急ぎ足でやってくる。

20/05 天声人語

2011年5月20日(金)付

 人恋しいのは山で迷った時だけではない。節電に沈む街を漂いながら、ヒトは寂しがり屋の動物だと思った。多くが掌中の機械を頼り、通じ合える誰かとピンポイントでつながっている▼震災後、ちょっとした結婚ブームだという。広告を控えたにもかかわらず、結婚仲介業者への資料請求や入会が増加中と報じられた。「寿退会」も多い。一緒にいてくれる誰かを求め、女性の動きが目立つそうだ▼余震や停電、放射能を案じての独り暮らしは、都市の孤独に慣れた人でも心細いのか。あの夜、何時間も歩いて帰宅し、明かりをつけても一人。きずな、だんらん、安らぎといった言葉たちが背中を押すのだろう▼名高い調律師の著にあった。「ピアノは振動には結構強いが、温度や湿度の変化に弱い。たちまち調律が狂う」と。人はピアノにも似て、大地の揺れに耐えつつ、一変した世の空気に心は乱れる。そして、自分だけの調律師を探す▼真偽はさておき、米国では大停電や大災害、テロのたびに小さなベビーブームが伝えられる。何げない温(ぬく)もりが愛(いと)おしく、独り身は婚活に燃え、交際中は結ばれ、若い夫婦は……。ささくれた世相に疲れた人は、家庭なるシェルターにこもるらしい▼2011年春、万の人口が瞬時に失われた。喪に服す列島がにわかに放つ結婚熱は、欠けた命を補う営みにも見える。種族の本能といえば大仰だが、少子化に一矢報いるべく、慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしい。この国はまだ生きている。

19/05 天声人語

2011年5月19日(木)付

 温厚、誠実な好人物にとどまらず、知的でダンディー。中高年がうらやむ「おじさま」の条件を独り占めしていた。77歳で亡くなった俳優の児玉清さんである。実は骨っぽい逸話も多い▼東宝の新人時代、ロケ先で若手スターからお茶に誘われた。サインをもらいに来た女性が「あなたも」と児玉さんに色紙を差し出すと、スター氏が「こいつは雑魚(ざこ)だよ」。席をけった雑魚、俳優を貫く決意を固めたそうだ▼ただ、役者の自己陶酔とは無縁だった。テレビで使われる理由を「無味無臭なある種の清潔感、要するにアクの無さ」と自ら解説し、爆弾魔役で取った賞には「やりそうにないやつがやったというのは一度しか効かない」。覚めていた▼〈さあ、ここからは慎重かつ大胆にお答え下さい〉。36年も司会を務めたクイズ番組。語り口に端正な人間味がにじむ。柔らかな声、共演女優が言う「人を幸せにする笑顔」が、解答者の緊張をほぐした▼長身にまとった知は自前だった。蔵書で自宅の床が傾くほどの読書家で、米英の小説は原書で読んだ。さらに随筆、切り絵も。芸能人でも文化人でもなく、一人の親としての痛恨は9年前、36歳の長女を同じ胃がんで失ったことだろう▼「クイズ番組は人生そのもの」と語った通り、児玉さんも勝ち負けを重ねて領域を広げた。半世紀を超す芸能生活が視聴者に等しく残した印象は、控えめだが親しみ深い中間色だろうか。25すべてのマスをベージュで埋めて、まな娘に再会する旅に出た。

18/05 天声人語

2011年5月18日(水)付

 辞書によれば、〈溶ける〉とは固形物が液状になることだ。類語の〈とろける〉には、心のしまりがなくなる/うっとりする、の意味が加わる。「ろ」が入るだけで随分まろやかだが、間違って「炉」を添えると、〈溶ける〉が牙をむく▼「メルトダウン」は軽々しく使える言葉ではなかった。なにしろ、原子炉の燃料棒が自らの熱で溶け落ちる悪夢である。燃料の損傷という軽い響きも、炉心溶融と正直に書けば、ただならぬ気配に腰が浮く▼福島の事故で、1号機のメルトダウンは津波の数時間後に始まっていたという。東京電力の当初の読みよりずっと早い。隠したなら論外、知らずにいたのならなお怖い。やはり運転中だった2、3号機の燃料も溶けて発熱中らしい▼競うように暴れた末、毒を吐き、枕を並べて熱に浮かされる1~4号機。熱冷ましの注水が汚染水を生み、新たな注水を不要にするための作業には強い放射線が立ちはだかる。放置すれば破局、策を講じたら次なる試練というイバラの道だ▼長く稼いでくれた4兄弟に、安らかな最期をどう用意するか。親にあたる東電が改めた工程表にも、確たる道筋はない。明日をも知れぬ病状と、「来年早々の安楽」の間がどうにも描きづらい▼「孝行息子」が最後にしでかした悪さを前に、政府と東電は保護者の責任を押しつけ合うかのようだ。ここは双方が死力を尽くし、税金と電気料金へのツケ回しを堪(こら)えるのみだろう。国がとろけようかという時に、官も民もない。

17/05 天声人語

2011年5月17日(火)付

 釣りの極意は「一場所二えさ三に腕」などと言われる。道具や腕前がいくらよくても、魚がいない水面に糸を垂れては時間の無駄だ。悪事もまた、装備や技量より場所とタイミングらしい▼東京都立川市で警備会社の営業所から奪われた6億円強。国内の現金強奪では最高額という。これほどの札束、そうそう一営業所で夜を明かすはずもない。会社の幹部は「どうして6億もある日に強盗が……」と言うが、6億もある日だから、ではないか▼2人組は無施錠の窓から侵入、仮眠中の宿直者から金庫室の暗証番号を力ずくで聞き出した。内部の事情に通じているようだ。この会社は現金輸送車の大金を何度か盗まれている。そうした過去を知っての仕業にもみえる▼事件前の巨額強奪番付では、1968(昭和43)年の3億円事件がまだ5位にある。より新しい1~4位は犯人が捕まったか、時効後に別事件の容疑者が関与を認めた。3億円事件だけがいまだ迷宮を漂う▼年末宝くじの1等賞金が1千万円になった年だ。大卒初任給は約3万円だったから、3億の重みは今の20億以上だろうか。しかも手製の白バイで警官になりきる早業。犯罪史に残らぬはずがない▼立川の犯行が「6億円事件」と語り継がれることはあるまい。強盗に上品も下品もないが、工夫の跡が見えない手口は、狭いイケスに網を打つがごとし。場所と日時さえ教われば、大抵の悪人がやってのけよう。反論があればいくらでも聞く。まずは魚ごと自首すべし。

16/05 天声人語

2011年5月16日(月)付

 再び栗林中将にご登場いただく。映画「硫黄島からの手紙」の冒頭、指揮官として島に着いた中将(渡辺謙)が、部下をぶつ上官を制する場面だ。「兵隊には十分な休息を取らせるように。見たまえ彼ら、まるで月から来たみたいだ」▼戦中、ガダルカナル島など南方戦線での日本軍の犠牲は、戦闘より飢餓と病気による衰弱が多かったという。補給や増援が途絶えたためだ。現場を大切にしなければ、どんな作戦も失敗する▼まいど戦争に見立てるのは気が引けるが、福島の原発で続く激闘で、東京電力の協力企業が雇う60代の作業員が亡くなった。現場で働き始めて2日目、事故を収束させる総力戦で初の「戦死」である▼倒れた時間帯に医師はおらず、遠方の病院に運ばれたそうだ。死因は持病というが、張り詰めた仕事は心臓に障る。病を押して働くには、使命感だけで語れぬ事情もあろう。東電社長の「日当」20万円は無理でも、危険に見合う報酬、救急態勢は必須だ▼非常時を理由に、被曝(ひばく)などの安全ルールが緩まり、作業員の急募は中高年を軸に九州にも広がる。大阪の日雇い労働者は、「宮城でダンプ運転」の求人に誘われ、この原発で働いていた▼新たに大量の汚染水が見つかるなど、戦況は険しい。かき集められ、雑魚寝の体育館から戦場に赴く人々には、「月から来た」ほどの疲労が積もっていよう。彼らの双肩が担うものと、処遇の落差に暗然となる。いま求められるのは戦略と後方支援。美談や英雄ではない。

15/05 天声人語

2011年5月15日(日)付

 東京・芝浦の有名ボウリング場が、震災で休んだまま、40年近い営業を終えた。その一角、駐車場のくすんだ外壁に目を凝らすと、日焼けの名残のごとく「JULIANAS」の文字跡がどうにか読める▼20年前、この地にジュリアナ東京が開業した。社会現象とまで言われながら、店は3年3カ月の泡沫(うたかた)に終わる。跡地にできたスポーツ品店も今年初めに閉じ、殺風景な扉が残るだけだ▼商社の日商岩井(現双日)が外資と手がけた大型ディスコは、都築(つづき)響一さんの『バブルの肖像』によれば「一種の仮設祭礼空間」だった。「ひと晩だけ、いつもより少しだけ大胆に肌をさらし、音楽に乗ることさえできれば、そこではだれもが女王様になれた」▼倉庫を改装したフロアでは夜ごと、肉感的な装いの女性客が、通称ジュリ扇(せん)を手にお立ち台で身をくねらせた。バブル経済の象徴のように語られるが、株価や景気はとうに下り坂で、実際はバブルの焼け跡に咲いたあだ花だった▼続く時代は失われた10年と呼ばれた。財政と金融の不全に政治の混迷が加わり、今に至る20年が無為に消えたとの見方もある。貧しくとも静かな生活を望んだところで、前提となる平穏や安全が揺らいでいる▼あの不夜城の、ひりつくような熱狂の中に本物の幸せは見つからなかった。かといって自分の殻にも閉じこもれない。ならば目下の複合災害を、せめて大切なものを取り戻す契機にしたい。足るを知り、助け合う生き方。バブル以前の忘れ物である。

19/05 マイナス成長―変革力育む環境作りを

 東日本大震災が日本経済に与えた痛手はやはり大きかった。今年1~3月期の国内総生産(GDP)は実質で年率3.7%減少し、踊り場に入った昨年10~12月期から2四半期連続のマイナスとなった。

 本来なら日本経済は、米経済の持ち直しを受け、多極化する世界市場に向けて攻勢に出ていたはずだ。その出ばなを震災でくじかれた。

 民間予測では4~6月期もマイナスという。阪神大震災の時には復興需要がスムーズに出てきたが、今回は主に二つの点で事情が異なる。

 まず、東京電力の福島第一原発の事故だ。東電がカバーする首都圏を中心に電力供給の低下により、経済活動への制約が長引くことが避けられない。

 さらに、組み立て型製造業で発達したサプライチェーンと呼ばれる高度に相互依存的な部品供給態勢が、深刻な打撃を被ったことだ。たとえば半導体工場で電子制御用のマイコンがつくれなくなると、それだけで多くの自動車会社の組み立て工場が止まる、という事態だ。

 日本経済が、今後も最高の製品やサービスを世界の様々な市場のニーズと購買力に合わせて提供していくためには、どうしたらいいのか。震災は新たな課題を突きつけた。

 日本が円高を克服して輸出を続けるには、一芸を究めるような高度な製品作りが切り札になる。だが、これは量産効果などを踏まえると製造場所が1カ所に絞られる傾向が強まる。

 震災によるサプライチェーンの分断は、このリスクを顕在化させた。世界の顧客が部品や素材の日本への過度な依存を見直す可能性もある。客離れに至らぬよう、生産拠点の分散などの手を打っていきたい。

 一方、成長戦略としてサービス産業の拡充に期待が集まっている。だが、震災が引き金となった二つの巨大サービス企業のつまずき、すなわち東電の原発事故と、みずほ銀行のシステム障害を考えると、日本の実力を総点検する必要がある。

 独占や寡占に守られた大企業は、私たちが自覚する以上に制度疲労を起こしているのではないか。それが革新や創造の芽を摘んでいないか。とすれば、競争を通じて企業を鍛え直す環境作りが一段と重要になる。

 与謝野馨経済財政相は「日本経済の反発力は十分に強い」と先行きに自信を見せた。だが、自然な反発力に期待するだけでなく、強みと弱みを洗い出し、新たな発想や工夫で未来を切り開く変革力も育みたい。

18/05 原発工程表―溶融炉心との闘い続く

 福島第一原発事故の収束に向けた工程表は、作成1カ月で早くも遅れが心配されている。

 東京電力が事故直後の炉の詳しいデータを取り出して公表した。これを見ると、1~3号機すべてで炉心溶融(メルトダウン)が考えられるなど、状況が極めて深刻だとわかる。

 炉の中は見えないが、燃料は不定形の塊になり、一部は圧力容器の底から漏れて、格納容器に落ちているとみられる。

 それにしても、ここまで2カ月もかかるとは、どういうことか。本来は発生直後に、大ざっぱであっても炉の状態を計算して割り出し、「最短時間で最良の措置」の選択に役立てるものだろう。

 「データがそろわない」と、東電はこれまで詳しく計算しなかった。事故当事者として頼りないだけでなく、情報公開のあり方として問題がある。

 外部の多くの専門家は「早い段階でメルトダウンが起きているはず」といっていた。なのに東電と原子力安全・保安院は「炉心の損傷」という言葉を使ってきた。小さな事故のイメージに誘導したのではないか。

 厳しい想定をしていれば、建屋の爆発をおこした水素発生にもっと注意できたはずだ。汚染水による作業員の被曝(ひばく)も防げただろう。

 今後は、作業の一層の難しさを覚悟しなければならない。炉心溶融を起こした1979年の米国スリーマイル島原発事故では、カメラで炉心を撮影するまでに約3年かかり、燃料を取り出せたのは事故後10年あまりが過ぎてからだ。

 こうした状況から、東電が17日に出した工程表の改訂版も前進が少ない内容となった。

 当初の工程表は、初めの3カ月間で1、3号機の炉心を水で満たす「冠水」などで安定的な冷却状態をつくるとしていた。

 しかし1号機は格納容器からの水漏れが大きく、冠水を断念した。2号機は格納容器の一部である圧力抑制室が壊れているので、まずコンクリート詰めのような作業が要る。3号機の建屋内外には放射性のがれきが多く、作業を妨げている。

 損傷が広く、激しい事故だけに、「6~9カ月で原子炉を落ち着かせる」という目標には相当な困難が予想される。

 だが、避難住民は作業をかたずをのんで見守っている。工程表の進展は、ふるさとへ帰る時期の指標になるからだ。炉を落ち着かすことができれば、帰宅を検討できる。三つの溶融炉心を制御し、処理するという長く困難な闘いが続く。

Friday, May 20, 2011

20/05 牧師の被告に無罪判決 信者暴行裁判 水戸地裁土浦支部

2011年5月20日11時27分

 信者の女性に性的暴行を加えたとして準強姦(ごうかん)罪に問われた国際福音キリスト教会の代表・牧師で韓国籍の卞在昌(ビュン・ジェーチャン)被告(62)の判決公判が20日、水戸地裁土浦支部(神田大助裁判長)であった。神田裁判長は「女性の証言には誇張や不自然さがあり、信用性があるとは認めがたい」として、卞被告に無罪(求刑懲役7年)を言い渡した。

20/05 IMF前トップを強姦未遂などで起訴、保釈

2011年5月20日10時37分

 米ニューヨークの大陪審は19日、宿泊していたホテルの女性従業員(32)に性的暴行を働いたとして、国際通貨基金(IMF)前専務理事、ドミニク・ストロスカーン容疑者(62)を、強姦(ごうかん)未遂、性的暴行、監禁など七つの罪で起訴した。検察当局が明らかにした。

 また、前専務理事は同日、ニューヨークの裁判所に出廷。保釈を申請し、認められた。

 現金100万ドル(約8千万円)、保証証書500万ドル(約4億円)の保釈金を提出するほか、足首に電子監視装置をつけることや、市内の住宅で24時間監視下に置くなどの条件が科せられた。20日にも保釈される見通しで、公判は6月6日の予定だ。

20/05 中東和平実現へ、イスラエルに譲歩迫る オバマ米大統領

写真:米国務省で19日、演説するオバマ大統領=ロイター拡大米国務省で19日、演説するオバマ大統領=ロイター

図:イスラエルとパレスチナの位置関係拡大イスラエルとパレスチナの位置関係

 オバマ米大統領は19日、米ワシントンの国務省で中東政策の重要演説を行った。中東和平実現のため、イスラエルによるパレスチナ占領が始まった1967年の第3次中東戦争までの境界線を基本に、交渉を進めるよう提唱。占領地で入植活動を続けるイスラエルに譲歩を迫った。

 米大統領が、占領以前の境界線を和平交渉の出発点とするよう、演説で明確に求めたのは初めて。この基本線通りに占領地から撤退することになれば、入植地を持ち続けることはできない。オバマ政権が求める入植活動の凍結に応じないイスラエルに対し、厳しい揺さぶりをかけた形だ。オバマ大統領は20日、ホワイトハウスでイスラエルのネタニヤフ首相と会談する。

 オバマ氏は、中東や北アフリカ諸国での民主化の動きが加速する一方で、数十年に及ぶイスラエルとアラブ諸国の対立が「地域全体に影を落としている」と指摘。イスラエルとパレスチナの永続的な和平は急務とし、「2国家共存」による和平の実現に取り組むよう、双方に呼びかけた。


14/02 Uyên Linh suýt gặp sự cố với váy ngắn trên sân khấu

Được tổ chức ngay trên Cầu Ánh Sao - địa điểm nổi tiếng lãng mạn được các bạn trẻ TP HCM yêu thích, chương trình Đêm Valentine thế kỷ đã diễn ra hết sức thú vị khi ban tổ chức biến nơi đây thành một thế giới cổ tích với mưa bong bóng, vườn hoa được trang trí bởi hàng ngàn bông hồng xanh xinh đẹp, lãng mạn... và đặc biệt là sự xuất hiện của Thần tượng âm nhạc Uyên Linh cùng những ca sĩ đang được yêu thích nhất hiện nay: Wanbi Tuấn Anh, Thảo Trang, Trương Quỳnh Anh, Hà Okio…

Sau khi đăng quang ngôi vị cao nhất của Vietnam Idol 2010, Uyên Linh rất bận rộn với lịch diễn cũng như nhiều hoạt động liên quan đến việc thực hiện album đầu tay cùng nhạc sĩ Quốc Trung.

Tuy vậy, khi biết Đêm Valentine thế kỷ là nơi hội ngộ của rất đông đảo các bạn trẻ đang yêu nhau, Uyên Linh đã nhận lời tham gia biểu diễn. Chọn trình diễn ca khúc Cám ơn tình yêu với những ca từ ý nghĩa, lãng mạn không chỉ là lời chúc phúc cho các cặp đôi, mà còn là lời tri ân mà Uyên Linh muốn gửi đến khán giả. Biểu diễn hết mình và cực “sung”, ngoài Cám ơn tình yêu thì Uyên Linh còn “quậy” tưng bừng sân khấu chương trình đêm qua – 13/2 với một trong những ca khúc “đóng đinh” của mình tại Vietnam Idol 2010 – Take me to the river.

Nhưng vì diện bộ đầm trắng khá ngắn và được thiết kế gợi cảm theo style quen thuộc nên Uyên Linh đã suýt gặp phải sự cố “hớ hênh” với bộ trang phục của mình. May mắn là cô nàng đã phát hiện tình hình và biểu diễn hết sức cẩn thận với bộ váy của mình.

Uyên Linh thể hiện Cám ơn tình yêu là lời chúc phúc cho các cặp đôi, mà còn là lời tri ân mà cô nàng muốn gửi đến các khán giả trẻ

Sau đó cô nàng "quậy" tưng bừng sân khấu với một trong những ca khúc “đóng đinh” của mình tại Vietnam Idol 2010 – Take me to the river

Uyên Linh đã suýt gặp phải sự cố “hớ hênh” với bộ trang phục gợi cảm của mình

Dưới đây là một số hình ảnh trong chương trình vừa diễn ra:

Wanbi Tuấn Anh và Trương Quỳnh Anh - cặp đôi của Bóng ma học đường cũng có màn kết hợp hết sức lãng mạn

Wanbi cũng không quên gửi đến khán giả single mới nhất của mình - Dấu vết

Thảo Trang cũng có màn biểu diễn hết sức ấn tượng với sự phụ họa của những thiên thần nhí hết sức đáng yêu

Hà Okio

Theo VTCV

27/01 Uyên Linh: Phụ nữ quyến rũ nhất khi họ đam mê

Lần đầu tiên tôi thấy Uyên Linh là trên sân khấu của Soul of Melody (có thể hiểu là "Hồn của giai điệu") - cuộc thi tiếng hát sinh viên ĐH Ngoại thương Hà Nội mở rộng đầu năm 2008.

Uyên Linh chịu ảnh hưởng ca sĩ nào? Điều gì ở họ cuốn hút bạn?

Thần tượng của Linh là Whitney Houston, và là người Linh chịu nhiều ảnh hưởng. Điều đặc biệt tuyệt vời nhất ở cô ấy là lối hát say đắm nhưng không sa đà, buồn bã nhưng không tuyệt vọng. Và Linh phát hiện sự quyến rũ của người phụ nữ sẽ được đánh thức khi họ làm điều mà họ thực sự đam mê. Một điều nữa là phong cách trình diễn của Whitney Houston khiến người xem không thể rời mắt được.

Điều gì thúc đẩy bạn theo đuổi nghề ca sĩ? Mục tiêu bạn muốn đạt tới trong nghề?

Trước tiên, nghề nghiệp nói lên rất nhiều về con người và tính cách của mình. Nghề ca sĩ hay bất cứ nghề gì cũng chỉ là phương tiện để mình góp tiếng nói với đời.

Còn mong muốn gì hơn là tiếng nói của mình được mọi người lắng nghe, được đồng cảm! Mục tiêu gần nhất của Linh và với những sợi dây tình cảm đã tạo dựng ban đầu, mình còn giữ vững được lâu dài chừng nào tốt chừng đó.

Linh từng hát ở một số tụ điểm Hà Nội. Ấn tượng của bạn về thời gian chắc sẽ không bao giờ quay lại này?

Con người ta sống bằng kỉ niệm. Hà Nội đã cho Linh những kỉ niệm đẹp đẽ để thỉnh thoảng tự an ủi lấy mình. Kỉ niệm thì nhiều lắm, nhưng nhớ nhất có lẽ là đêm giao thừa, cũng là sinh nhật xa nhà đầu tiên, nằm trong chăn nghe Happy New Year mà nhớ gia đình kinh khủng.

Còn bây giờ, nằm điều hòa thường xuyên, cũng đắp chăn và nghe Những mùa đông yêu dấu (Đỗ Bảo) mà nhớ Hà Nội kinh khủng (cười).

Có bao giờ bạn phải chịu sức ép mưu sinh? Bạn giải quyết nó như thế nào?

Gia đình Linh không giàu có, nhưng bố mẹ cũng không để Linh thiệt thòi so với bạn bè, thậm chí còn có phần cưng chiều, vì Linh xa gia đình. Linh cũng đi làm thêm để có thể tự mua sắm, và để biết rằng kiếm ra đồng tiền đã khó, mà quyết định chi tiêu đúng đắn còn khó hơn.

Linh nghĩ rồi đến một lúc, con người ai cũng phải đối mặt với sức ép mưu sinh, nhưng không có chuyện gì là không có cách giải quyết. Sướng khổ tùy tâm, tất cả là do mình mà ra, và "sức ép" lớn hay nhỏ là do chính thái độ của mình quyết định.

Vì sao ngày đó bạn chọn Hà Nội làm nơi học tập và khởi nghiệp ca sĩ?

Học viện Ngoại giao chỉ có cơ sở duy nhất ở Hà Nội nên Linh phải ra Hà Nội. Những tháng ngày sống trong kí túc xá là kỉ niệm quá đẹp mà Linh có được trong đời.

Còn chuyện khởi nghiệp ca sĩ, Linh lúc đó 18 tuổi- đã nghĩ đến đâu. Đơn giản chỉ là yêu ca hát, là sống và học tập như bao người. Cái duyên ở đây là tại Hà Nội, Linh may mắn có thêm nhiều người bạn, họ đã ủng hộ và chia sẻ nhiều với Linh về âm nhạc. Việc hát đã đi vào đời sống tự nhiên như không.

Việc tiếp thu văn hóa và thẩm mỹ của hai thành phố lớn Hà Nội - TPHCM tác động đến bạn ra sao?

Hà Nội kín đáo và thâm trầm, Sài Gòn hoa lệ và sôi động, tưởng như trái ngược hẳn mà lại rất bình thường như mọi hỉ-nộ-ái-ố trong cuộc sống. Hát không chỉ là cất lên âm thanh, mà là chia sẻ trải nghiệm qua âm nhạc, tìm đến sự đồng điệu.

Bốn năm sống ở Hà Nội, trải qua những mùa rất rõ rệt, cực lạnh, cực nóng, cực đoan. Những điều đó ảnh hưởng rất nhiều đến cách hát của Linh. "Khi ta ở, chỉ là nơi đất ở/Khi ta đi, đất đã hóa tâm hồn".

Ngành ngoại giao là giải pháp tốt trong trường hợp bạn không trở thành ca sĩ?

Ồ, Linh nghĩ nghề chọn người chứ làm sao người chọn được nghề. Phía trước dù sáng nhưng không đi, sao biết cái gì đang đợi mình. Linh cứ phải đi cái đã. Chỉ biết là, tuổi trẻ hãy ưu tiên cho đam mê trước.

Việc bố mẹ chia tay ảnh hưởng đến Linh như thế nào?

Sao anh biết thông tin này? (cười) Trên Google cũng có à?! Bố mẹ Linh có quãng thời gian khó khăn thôi, hai người vẫn đang hạnh phúc.

Nếu nói không ảnh hưởng đến tính cách thì cũng không thành thật, Linh cũng tự thấy mình hơi ương ngạnh và nhiều lúc quá giống con trai. Không thích chút nào! (cười lớn).

Linh hát Chỉ là giấc mơ của Kim Ngọc với cảm xúc rất thật. "Giấc mơ" của bạn đã tới chưa?

Chỉ là giấc mơ Linh yêu thích từ rất lâu rồi, ca từ và giai điệu quá đẹp. Linh thần kinh không vững nên ngủ mơ hoài, thức dậy chỉ biết mình đã mơ, nhưng thật tình là không nhớ nổi đã mơ thấy gì.

Và bạn nghĩ sao nếu mình trở thành "giấc mơ" của nhiều người?

Linh thích là thực tại nhiều hơn. Vì thực tại dù xấu hay đẹp mình vẫn chấp nhận nó. "Mơ hồ như khói thuốc" (Lời bài hát Chỉ là giấc mơ-PV) không an toàn tí nào. (cười).

Uyên Linh Idol - Vài điều chưa biết

Lần đầu tiên tôi thấy Uyên Linh là trên sân khấu của Soul of Melody (có thể hiểu là "Hồn của giai điệu") - cuộc thi tiếng hát sinh viên ĐH Ngoại thương Hà Nội mở rộng đầu năm 2008.

Nhỏ bé, giản dị trong chiếc váy ngắn xanh nhạt, chiếc mũ rộng vành quá khổ so với vóc dáng, Uyên Linh không nổi bật nhất về giọng hát, nhưng ít ra cũng không gồng mình lên để chứng tỏ giọng khỏe như một số đối thủ.

Tính cạnh tranh của kì thi năm đó khá cao, vì người đứng đầu kì trước, cũng là sinh viên Ngoại giao, vừa thắng lớn tại giải Sao Mai toàn quốc.

Trong khi nhiều người chọn dòng dân gian đương đại thời thượng, thì Uyên Linh chọn A woman"s worth của Acilia Keys. Khi đó, giọng Linh hát tiếng Anh dày hơn, nét hơn tiếng Việt. Cô hát R&B Mỹ cũng hay hơn pop Việt.

Có lẽ hai năm ở Hà Nội chưa đủ để một cô gái Sài Gòn phát âm chuẩn tiếng Bắc. Nếu cô không hát tiếng Anh, nhiều khả năng giải thưởng cao nhất của Soul of Melody đã rơi vào tay người khác.

Trước đó, cuối năm 2007, Uyên Linh tiếp tục giành giải Đặc biệt Let"s Get Loud - cuộc thi hát tiếng Anh cho HSSV Hà Nội. Hai giải thưởng là những mốc đáng nhớ, cho đến khi cô đến với Thần tượng Âm nhạc Việt Nam.

Trước đó, ở Sao Mai Điểm hẹn 2008, tôi không lấy làm ngạc nhiên khi Linh không qua được vòng sơ khảo. Sao Mai 2009, giọng hát tiến bộ (với Đá trông chồng) nhưng vẫn không bật được lên giữa một rừng nhân tài của vòng chung kết miền Bắc. Đến đây, ấn tượng về Uyên Linh đọng lại chỉ còn ánh mắt - có gì đó lầm lì, không đầu hàng.

Khi nghe Linh thi Việt Nam Idol, tôi cũng chỉ nghĩ về tinh thần ham... đi thi của cô. Mãi đến khi Linh vào top 10, tôi mới nghe lại cô. Và cô đã làm tôi ngỡ ngàng bởi những màn trình diễn hoàn chỉnh - tiếng Anh cũng như tiếng Việt. Cô đã trang bị đủ kỹ thuật để truyền tải được dòng cảm xúc dào dạt của một tâm hồn biết hát.

Những đoạn phim đăng trên YouTube quay lại các tiết mục của Uyên Linh tại một quán cà phê ở Hà Nội tiếp tục làm tôi thích thú. Trong góc quán thiếu sáng, cô hát say mê và thỏa sức phiêu linh như thể đang trên sân khấu lớn.

Sự cổ vũ của thính khách cho thấy họ hoàn toàn đồng điệu với cô. Rồi những bài trả lời phỏng vấn báo chí, kể cả cách cô bày tỏ chính kiến trên Facebook khi bị tung tin nói xấu bạn cũng khiến... không có gì để phàn nàn.

Trên thực tế, có trường hợp bẩm sinh không được trời cho giọng hát nhưng vẫn trở thành ngôi sao có ảnh hưởng. Còn những giọng hát có thể rất hay nhưng không tỏa sáng - lại là điều rất bình thường. Uyên Linh giờ đây không chỉ biết hát thật hay, mà còn hội tụ vài yếu tố quan trọng của một ngôi sao mới, bao gồm cả kiến văn, bản lĩnh giao tiếp và xử lý tình huống.

Dường như chính những tố chất bên trong chín muồi đã góp phần đáng kể đưa Uyên Linh đến với thành công tại Thần tượng Âm nhạc Việt Nam - nơi cô rút cuộc đã gặp được hàng triệu trái tim đồng cảm.

Theo Nguyễn Mạnh Hà/Tiền phong

24/01 Uyên Linh - Qúy cô sexy

Là người cuối cùng bước ra sân khấu trong đêm nhạc Cám ơn tình yêu, Uyên Linh cất vang giọng hát đầy nội lực của mình với bài hát Giận anh. Sự hừng hực, gợi cảm trong từng lời ca, Uyên Linh như nung chảy đêm nhạc làm thỏa mãn cơn khát âm nhạc cũng như tình cảm của khán giả Hà Thành dành cho cô.

Với bộ đầm ngắn màu đen, mỗi bước di chuyển của Uyên Linh trên sân khấu như một quý cô dạo chơi vườn âm nhạc và hoàn toàn làm chủ giọng hát của chính mình, làm chủ sân khấu và kéo khán giả lắng nghe về phía mình.

Uyên Linh phiêu với Chỉ là giấc mơ

Uyên Linh phiêu với Chỉ là giấc mơ

Ngoài ca khúc lần đầu tiên Uyên Linh thể hiện là Giận anh, Uyên Linh còn làm nóng sân khấu với các bài hit đang làm sôi sục cộng đồng mạng như Take me to the river, Chỉ là giấc mơ… Độ phiêu của Uyên Linh trong những tình ca này không hề giảm đi mà còn khéo léo tạo nên một cầu nối gắn chặt hơn giữa khán giả và cô.

Uyên Linh và Á quân Việt Nam Idol 2010 quậy tưng bừng trong ca khúc tạo nên thương hiệu của họ Anh mãi là. Họ còn đốt cháy sân khấu với hit Cám ơn tình yêu và top 10 bước ra cùng hòa ca.

Đêm nhạc kết thúc phần nào đã làm thỏa mãn cơn khát của khán giả Hà Thành với Tân Thần tượng Âm nhạc 2010 Uyên Linh. Tuy nhiên, ở một góc nào đó Đêm nhạc Cám ơn tình yêu chưa làm ngưng cơn thèm khát giọng hát Uyên Linh.

Theo Thế giới điện ảnh